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2つの絵本、Dr.スース『緑のたまごとハム』とジャネル・キャノン『ともだち、なんだもん!---コウモリのステラルーナの話』の内容が、『アイ・アム・サム』という映画の基調となり、映画全体に「大人も愉しめる絵本」のような仕上がりをもたらしていること----は以上で証明した(笑)。今度は、先程も書いたけど、「この映画を観たみんながすぐわかる」ような、絵本以外の引用例について検討してみよう。まずは何よりビートルズだ。
『I am Sam アイ・アム・サム』


(※オリジナル曲の発表順。『』はアルバム。♪は映画内で流れるカヴァー曲)

 「P.S.アイ・ラブ・ユー」[62-10]→『プリーズ・プリーズ・ミー』[63-5]
 「ヘルプ!」[65-7]→『ヘルプ!』[65-8]
♪「愛を隠さなければ(ユーヴ・ガット・トゥ・ハイド・ユア・ラヴ・アウェイ)」『ヘルプ!』[65-8]
 「ミッシェル」『ラバーソウル』[65-12]
♪「きみのむこうが透けて見える(アイム・ルッキング・スロウ・ユー)」『ラバーソウル』[65-12]
♪「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』[67-6]
 「ラブリー・リタ」『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』[67-6]
♪「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」[67-1]→『マジカル・ミステリー・ツアー』[67-12]
 「愛こそすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ)」[67-7]→『マジカル・ミステリー・ツアー』[67-12]『イエロー・サブマリン』[68-12]
 「ヘイ、ジュード」[68-8]
♪「ブラックバード」『ザ・ビートルズ(通称「ホワイト・アルバム」)』[68-11]
♪「マザー・ネイチャーズ・サン」『ザ・ビートルズ(通称「ホワイト・アルバム」)』[68-11]
 「ヒア・カムズ・ザ・サン」『アビイ・ロード』[69-9]
♪「黄金のうたた寝(ゴールデン・スランバーズ)」『アビイ・ロード』[69-9]
♪「トゥ・オブ・アス」『レット・イット・ビー』[70-5]
♪「アクロス・ザ・ユニヴァース」『レット・イット・ビー』[70-5]
※「(ジャスト・ライク)スターティング・オーバー」ジョン・レノン『ダブル・ファンタジー』[80-11]

引用されるエピソードとしては、「ルーシー・ダイアモンド」って命名を皮切りに、サムの台詞に出てきた「やり直したい(スターティング・オーバー)」とかルーシーの「愛こそすべてよ(オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ)」とかいう曲名引用がまず挙げられる。そして幼いルーシーの質問「てんとう虫(レディ・バグ)は何故レディ・ビートル(淑女カブト虫)っていうのか?」でバンド名にも言及。んでビートルズ雑学ネタとして、お向かいの引きこもり=外出恐怖症のアニー(でもNYのジュリアード音楽院首席卒業!)による「ルーシー…」=LSD説の批判とか、サムの「ミッシェル」作詞秘話を使っての証言、また彼がリタを励ます時の「ヒア・カムズ・ザ・サン」誕生秘話などなどがある。サムの新しい部屋番号「9」から、いろんなビートルズ絡みのネタが出てくるのも面白い。『ヘルプ!』限定版が7歳の誕生プレゼントってのも凄いような……。ちなみにサムはアニーの影響でジョン・レノンが一番好きみたいで、ルーシーはポール・マッカートニーがお気に入り、リタが好きなのはジョージ・ハリソンだ。なおサントラには映画未使用のカヴァー曲があと8曲ある。でもなによりも、「ミッシェル」・ファイファーとか、レノンの息子と同じ「ショーン」・ペンとか、ジョン・レノンが住んでいて、その前で殺されたNYのアパート名と同じ「ダコタ」・ファニングとかって虚構を超えた現実の不思議な符合の方が、もっと凄いかもしれないのだ(みんな何にも言わないけどさ)。ビートルズ関連妄想から映画が成り立っているようにも見える=ビートルズ・トリヴィアを基礎教養として持ってないとワケがわからないかもしれない、というキワドサも、この映画の危うい魅力であることは確かだろう。もっとも僕はそんなに詳しくないので、劇中のサヴァン達のマニア度には平伏するしかない。「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさというものをよく知っている」と、村上春樹『ノルウェイの森』(講談社文庫他)の作中人物に評されるビートルズだからして、そこまで言い切れるほど詳しくない僕には専門的なビートルズ学を踏まえたような話をする資格はないのだ。そもそも『アイ・アム・サム』をビートルズに絡めて厳密な議論を展開する----なんてのは「ラーメンのうまさをヘーゲル哲学の用語で語ろうとするようなもの」(柴田元幸「ビートルズ」『ロック・ピープル101』[新書館]所収より)なのだし。けど、ちょっとだけ気になることを考えてみたい。

問題は「愛こそすべてよ」と7歳の少女ルーシーが言う時、僕らが思わず感動し、少し微笑み、そして少し畏れてしまいもするような感覚なのである。さて、彼女はどのくらい「わかって」そう言っているのか? 直感的に「愛こそすべて」だと識っている? 深い意味も知らずに歌詞をそのまま引用しただけ? いや、そんなことより、僕らはあんな風に言い張れるほど「愛」を信じているだろうか? というよりも、ポピュラーソングの一節が、実人生の中で明白な「真理」として主張される時の、何となくある微かな違和感に、戸惑いはしないか? 何か、「絵空事を現実と混同してる」みたいな恥ずかしさが、でもそうやって混同されること=「現実に実効力を持つこと」こそ全ての表現者の究極の願いであるはずだという想いと前後して、胸に迫ってくる感じ……。理想的な瞬間のような、でも「現実はそんなに甘くない」って反発してしまうような、微妙な気分……。ココにこそ、この映画の恐るべき側面が隠されている気がするのだ。それは「映画」という虚構=フィクションの作り手にとっても、自らの作る映画が、現実を破壊して再編成する力を持つことを願っているはず----ってな、僕の個人的な思い入れからくるものなのかもしれないのだけれど……。つまり作品の観方がメタ・フィクション的な方向へと変貌(量子論的飛躍?)する時の、得も言われぬ、スッと醒めるような熱に浮かされるような不気味な不穏な感覚が、「愛こそすべてよ」という台詞あたりから忍び寄って来るのを感じたのだ。この台詞は「信仰告白」に似ている。信者でない者には根拠が無いとしか言えない断定----「ヒトは神様が自らの姿に似せて創ったのよ」とか「イエス・キリストは復活するのよ」とか真顔で言われた時の、非キリスト教徒の気分。「アメリカは(キリスト教の)神の明白な使命(マニフェスト・デスティニー)によって成立したのよ(先住民を虐殺したのよ、でもいいけど)」と言われたら、「君はそう信じているんだね(僕は違うと思うけど……)」と返すしかない感じ。でも信じている者には疑う余地もない(いや疑ってはいけない)真実であり、それによってその人の世界観が構築されていたりするワケだ。だからたとえ理路整然と否定・批判してみても無意味かつ無益で、その相手にとって有害ですらあったりする。それが信仰の本質なのだ、滑稽にも思えるけど……。で、『アイ・アム・サム』はある意味でビートルズ教徒の世界観で描かれているし、だから滑稽でもあり微笑ましくもあり、そして少し哀しくもある。映画の登場人物達は、教典(歌詞)や聖人伝(メンバーのエピソード)を自らの血肉にし、人生の指標として参照しつつ、つつましく健気に「ビートルズ的世界」を生きている、ただそれだけ……なんだけれど。はてさて。

かつてビートルズ時代のジョン・レノンは「いまや我々はキリストよりもポピュラーだ」と挑発し、世界のキリスト教徒を激怒させたという。日本でも1966年の来日前後にまずかなり酷い排斥論もあったし、認知後も今度は逆に新参ビートルズ教徒をニセ信者として排斥する初期ファンによる大人げない攻撃があり、対してパンク以降の新興宗教信者(今ならモーヲタとかか?)に「古臭い」と毛嫌いされもして、それらも懐かしい思い出となって現在に至っている。そこら辺は例えば講談社文庫『ビートルズってなんだ?』なんかを参照してほしい。今読むと笑えるネタも満載で、例えば1966年の宝石8月号に載った対談では、「だいたいビートルズだのエレキだの、モンキーダンスだのとそこいらで、『ハアー』なんていって騒いでいるやつは“超特別”に軽蔑しているんだよ。だいたい人類進歩のためにならない、人類を堕落させる動きだからね、ああいうのは」と経済ジャーナリストの小汀利得(1889-1972、当時76歳)が、青島幸男(当時34歳)や野坂昭如(当時36歳)に向かって叱りとばすなんてトコから始まってて、なんか失笑を通り越して目眩がするほどだ(当時のジジイが“超”なんて30年後のギャル語を使ってるし!?)。今や保守的な音楽ファンのスタンダードというかオールディーズと化したビートルズだけど、大衆向けのカス音楽として弾圧されてたのが、たった30〜40年でアッという間にクラシックな聖典になるものなのね、と驚くしかない。余談だけど、実はもっと古いエルヴィス・プレスリー信者も根強い信仰(笑)を保っており、ジャック・ウォマック『テラプレーン』『ヒーザーン』(ハヤカワ文庫)に続く『エルヴィッシー』(未訳)なんてSF小説もあれば、最近でも『グレイスランド』や『スコーピオン』なんて映画もあったりするのだ。そういう意味で『アイ・アム・サム』はビートルズ信者によるビートルズ信仰告白映画のひとつ、という側面があることは、かのバンドへの思い入れの濃淡に関わらず、特記しないわけにはいかない特徴なのである。ビートルズの教えに従って人生を生きる人々の映画----それもまたビートルズ神話を補強して、さらなる信者を増やすための諸聖人伝のひとつとなる……のかもしれない。

いや、もちろんビートルズの歌も、『アイ・アム・サム』も、ただの歌だし、ただの映画だ。ただの虚構=フィクションなのだから、キリスト教徒にとっての聖書と同じように、そこから実人生への教訓とか指標なんてのを受け取るのは馬鹿げている----って意見も、まあアリだろう。さもないと変な宗教の信者みたいな扱いをされちゃうかもしれないのだから。でも「絵空事」に殉じるバカってのは、森鴎外が短篇「かのやうに」で描いた時代から90年たっても、やはりなかなか手強いのである。しかも現代は信仰の自由が保証されてもいるのだし。……などと、バカの一人でありたい僕はツラツラと考えるのだけど、この映画に没入しつつ醒めてもいるような感覚を持った時に、単純に映画の良し悪しに還元しちゃう愚を避けるならば、映画への愛をまず信仰告白しつつ、その中に潜む怖さもしっかり把握しておくべきだと感じたのだ。で、「ビートルズ絶対主義(原理主義)」な観方はすぐさま却下するとして、でも「ビートルズ嫌いだから、この映画も嫌い」なんて逆パターンも自戒して、さて「ビートルズやジョン・レノンが表現したものが何であったのか、それがビートルズ・ファンという設定の作中人物達の行動原理をいかに決定してるのか?」と考えると、いろいろビートルズ教学を進展させるような視点が生じるはずだし、そこまでやって初めて本作のまともな批評になるはず。熱烈なビートルズ・ファンによる評価(賛否どちらでもいいんだけど)を、ぜひ聞いてみたいと思うのだった。あ、ついでに。騎兵隊VSインディアン対決になぞらえたようなクライマックスに吹き出しちまったベトナム戦争映画『ワンス・アンド・フォーエバー』をCMでホメてた小野洋子ことヨーコ・オノへの失望を熱く語るヒトも見かけなかったし、真正ビートルズ教徒ってのが本当にいるのかどうかってことかもしれない。醒めたファンがビートルズ・ビジネスを支えているんだろうか? さり気ない応援、みたいな好み方をされてんのかなぁ? と、これ以上この方面から攻めるのは、挑発に乗ってくれるビートルズ教徒に任すとして……。


『アイ・アム・サム』と2つの絵本とビートルズ、そしてメタ映画

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