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ちょっと戻って、「この映画のジャンルは?」と考えてみよう。僕は「絵本のメタ寓話」だとか「ビートルズ信仰告白映画」だとか「サヴァン(聖なる愚者)映画」だとか仮に言ってみたけれど、親権をめぐる「法廷もの」だったり「美少女ヒロインもの」(笑)だったりもするのだ。「親子もの」として昨年の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『A.I.』の「母と息子」に対抗する「父と娘」ものだとまとめる手もある。ここは、ひとまずジェシー・ネルソン監督作(『コリーナ、コリーナ』『アイ・アム・サム』)・脚本協力作(『グッド・ナイト・ムーン』『ストーリー・オブ・ラブ』)に共通する傾向として、「ユーモア・ファミリー・ロマンス」であると言ってみる。いわゆる「ホーム・コメディ」だ。そこにはTVドラマ的な「ソープ・オペラ」の香りもあるし、彼女の出自である現代演劇的要素も入っているから、「わかりやすさ」や「メタシアター」的傾向を読み取ることもできるだろう。例えば『コリーナ、コリーナ』は自伝的要素がアイデアの核になっているのだけど、実際に彼女の少女時代にホームヘルパーだった黒人女性は父よりずっと高齢のお婆さんで、「父と結婚して欲しい」と思っていたという“幼い夢”が、そのファンタジーの具現化として映画のハッピーエンドに導入されているという逸話が、リアリティとは違う映画作りの志向を象徴している。またこの『コリーナ、コリーナ』の未完な感触、特に少女のお婆さんの世間体からの反撥描写の処理がうまく着地できていない感じは、おそらくお爺さん役ドン・アメチーの死に、映画自体がハプニング的に見舞われた哀しみを、そのまま表現したいという監督の意志にもとれる。ちょっと考えてみればわかるけど、母親の死を乗り越えたばかりの娘に、優しい祖父の死が追い打ちをかけるような設定に、劇的必然性はない。まさに「名優の死」という現実に打ちのめされたかのようなちょっと唐突な終わり方に、センシティヴな追悼の意が込められてもいるのだ。自伝的な現実の母の死の記憶、そしてそれを核とした映画での現実の老名優の死。その二重化した哀しみによって映画がメタ化する瞬間は、その事情を知る人にこそ強く感受される「映画を超えた表現」となる。それゆえ映画評論家(ビデオ観ただけの人も)は映画単体としての出来を批判するかもしれないが、自作に何が表現されているのかにこだわる表現者なら当然のメタフィクション的アプローチだと言えるだろう。それは『コリーナ、コリーナ』で多用されるジャズ音楽に関する雑学の引用という、『アイ・アム・サム』にも通じる「引用による表現」が、現代演劇的な問題意識にもリンクしつつ、彼女固有の持ち味となっていることからも導き出すことができるメタフィクション性だ。倦怠期の夫婦問題を扱った『ストーリー・オブ・ラブ』でも、本筋を展開する合間合間に、(おそらく現実の)いろんな老夫婦達のインタヴューが無数に挿入されていた。これも映画をメタ化する試みであることは言うまでもないだろう。このメタ「ユーモア・ファミリー・ロマンス」という特性こそ、『アイ・アム・サム』を論じるキモであるべきだと僕は思うんだけど、どうもそうした評論を見かけないことが、僕には奇妙に思えるのだ。何故そうした視点で観ることをすすめるくらいのこと、できないんだろう? ただ貶すだけの評を書いた映画ライターには、猛省して欲しいと思う僕なのであった(←偉そうに)。でもまあ、「メタフィクション」的物語なんてのを生理的に(?)受けつけない人もいるようなので、問題は厄介なのだ。だからボーっと観てても大丈夫な「わかりやすい」物語を、表面上に用意しなくちゃいけないんだけど、ここで罠に引っかかると、単なる「好き嫌い」でバッサリやられちゃうだけの作品になる。しかし表面上にわかりやすい話を置かないと、『マルホランド・ドライブ』のような難解さで攻めるしかなくなってしまうし。ここの匙加減が難しいのだ。『アイ・アム・サム』は、その意味で健闘してると思う。批評家の前評判なんかより、映画を尻上がりにロングラン・ヒットさせた観客の偉さってのもわかるしね。僕みたいにゴタクを並べなくても、口コミってのは“肌”で感じた何かに反応しているってことなのだから。そう、ここでは映画の「深み」を味わう観客サイドの能力ってのが、問われてもいるのだ。



以下は余談だ。古参の映画ファンに「特撮やCG多用映画はウソっぽくてイヤ」という根強い見解がある。彼らが遵守するのは「リアリティ」という基準なんだけど、この「本当らしさ」ってのが実はクセモノだ。それ以前に「演技がヘタ」とか「演出がヘタ」というもっと古くからある演劇的な判断もまた、「現実らしさ」をめぐるものなんだけど、実際の現実は下手な演技に満ち溢れていたりする(少なくとも試写や取材などで身近で見る偉いギョーカイ人達のふるまいの嘘臭さはラズベリー賞あげたくなることも多い)し、それこそ日々ベタな演出みたいな事件だらけだったりするので、時々「リアリティってのは一体何なんだろう?」と自問自答してしまうほどだ。現実は小説よりも奇なり、なんて言い回し自体が死語となりつつある、ロールプレイじみた現実。だから映画の中で起こっていることに、容易に「嘘臭い」と言うことが、酷く繊細さを欠いた言葉に思えてしまうことがあるのだ。で、『アイ・アム・サム』は、「嘘臭い」なんて言うには確信犯な「作りこまれた虚構」(だってビートルズのアルバムジャケットをパロってたりもするんだよ)だと思うんだけど、何故か一部で「嘘臭さ」という基準のみで酷く批判されたりする。これって何? ……そんな素朴な疑問から、長々と検討してみたけど、はたしてわかってもらえるかなぁ。

さて、「嗅覚派」コラムニスト、中野翠に「美少女の子役臭ふんぷんの芝居にも閉口」と酷評されてたダコタ・ファニングについて、最後にちょっと語っておきたい(あ、僕は匂わなかったです→中野センセイ)。映画内で動いているダコタ・ファニングは、とても利発で可愛い美少女(というか美幼女)なんだけど、スチル写真で見るとちょっと怖い顔でもあるな……と思ったのだ。僕は少しロリが入っているので(笑)、ルイス・キャロルの『アリス』2部作とか、『地下鉄のザジ』のカトリーヌ・ドモンジョとか『ミツバチのささやき』のアナ・トレントとか、最近では『キャメロット・ガーデンの少女』『シックス・センス』のミーシャ・バートン(『ノッティングヒルの恋人』にも出てた、『翼をください』では成長してたなぁ)なんてのについ反応してしまうんだけど、彼女達に比べて、このダコタ・ファニングには怖い感じがあったのだ。もちろん利発な役柄のせいもあるんだけど、末恐ろしいって感じなのか、アメリカで深刻化している性的虐待の対象になるような感じというか……。う〜ん、よくわからん。役柄も、演じている本人も、「大人のように狡賢い」かつ「子供のように純粋に正しい」というオーラを発していると、まず思ったのだ。だから(リアル信仰のひとつから生じがちな紋切り型ケナし言葉である)「子役臭ふんぷんの芝居」ってのは酷いけど、かつてアグネス・チャンを「匂い」で批判した実績(笑)のある中野翠センセイは、何かそこにラディカルな危険を感じたのではないか、と深読みしてみたくなったのかもしれない。ま、要するに年輩の(子を持たない)独身女性である(と思うんだけど違ってたらすいません)中野センセイに、何か凄い脅威を与えたのでは?なんて好意的な(中野センセイにとっては意地悪な?)読み方をすると、かつての子連れ出勤論争の本質(少子化時代に顕在化する「子を持たないで死ぬ人々」の権利主張? あり? 中野センセイは保守派のはずだが? う〜む)が見えてきた気がするんだけど、それはさておき(詳しくは村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』を論じたbook“P”コラム参照)。なんで気になるのかというと、やはり『アイ・アム・サム』が「サヴァン」という社会的弱者でありながら優れた天才的能力を持った人々を(さりげなく)扱った映画で、彼女自身も子供という社会的弱者でありながら天才的な演技能力を持っている----という共通点があるからだろう。ここにもメタ化の契機が潜むワケなんだけど、簡単に言うならサヴァンや「知的障害者を演じる名優」や「名子役」は、すべてフツーの人達から観た「恐るべき子供達」なのだということを、この映画が体現してしまっている事態に、僕はたぶんドキっとしたのだ。

で、彼女が気になったんだけど詳しいことはわからない。だいたい「ダコタ」って名前(芸名?)が気になる。ジョン・レノンのダコタ・ハウスからとったのか?ってまず思うんだけど、それもよく考えると変だ(すぐ射殺されたジョンの悲劇を思い出すわけだし)。じゃあダコタ州からとったのかな? インディアンもといネイティヴの言葉で「同胞、友達」の意であるのは知ってるけど、ひょっとして親はヒッピー・コミューン世代か、いや祖父母の代がそうなのか? それともネイティヴ・アメリカンなの? ……などと憶測が妄想の域に達してしまうのだが、女性名で「ダコタ」って、どのくらいポピュラーなんだろう? そういう素朴な疑問に限って、プレスもネットも教えてくれない気がする。わかったのは「ダコタ・ファニング Dakota Fanning:1994年2月23日生まれでジョージア州出身、妹にエルElleがいる」ってのと既に10本近いTVドラマに出演していること(例えば『ER』第6シーズン19話)とか、出演映画は予定も含めて7本ほどあって、『Sweet Home Alabama』(2002)ではメラニーの少女時代を演じ、Dr.スース原作の『The Cat in the Hat』(2003)のサリー役とかも決定しているとか……ぐらいか。ううむ。ま、こうなりゃ今後の活躍を見守るしかない。このメタ感動作『アイ・アム・サム』で彼女に出会えた観客が、後々凄くラッキーだったと思えるくらい大成してくれることを祈ることにしよう。

と、うまくオチてないけど(笑)、余談終わり。ま、まだまだ書きたいことはあるのだが、また別の機会にしよう。このコラムではこんな風に、一粒で二度美味しい映画の味わい方なんてのを、うまく提示していけたらいいなと思う。では今回はこの辺で。あ、今回は特別編なので長くなったけど、次回からはもっと読みやすい長さになるはず。というか、いつもこの調子だとコストパフォーマンス悪過ぎ(笑)。長いのを我慢して最後まで読んでくれた人に感謝して、終わることにする。んじゃね。

Text:梶浦秀麿


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