1 2 3 4 5 6
ってなワケで、“余談王”梶浦秀麿プレゼンツ、「闘う観客」的映画の観方、愉しみ方を勝手に提案!とかいう主旨らしきコラムのはじまりなのである。まずは『アイ・アム・サム』についての濃〜い分析だ。




今年上半期の映画の中でも個人的に超スキなので、『アイ・アム・サム』の話をしたい。だけどこの映画、いわゆる映画評論家の人達にはエラく評判が悪い。好みは人それぞれだと思うんだけど、もうクソミソな言われ方をしてて、あんまりその言い分が酷いので、ちょっと反論したくなってしまった。
『I am Sam アイ・アム・サム』
監督・共同脚本・製作:ジェシー・ネルソン/出演:ショーン・ペン、ダコタ・ファニング、ミシェル・ファイファーほか
→レビューを読む
特に僕が日頃から愛読してるTVブロスの映画コーナーなんだけど、その12(6/8-21)号では酷評のオンパレードなのだ。「試写室に火をつけろ!」のミルクマン斉藤センセイは、主演のショーン・ペンの監督作『プレッジ』を褒めたついでに「“サム”みたいな醜い映画に出るくらいなら監督に専念すべきっ!」なんて言ってる。「醜い映画」……ってのはあんまりだ。「志が低い映画」、みたいなニュアンスらしいんだけど、『プレッジ』の悪意ある結末だけに「志の高さ」を観るのは間違ってると思うんだけどなぁ。んで、クロスレヴュー欄の渡辺麻紀センセイは「テーマも展開も、おそろしいくらいにオーソドックス。ということは意外性も驚きもないわけで、まるでお約束の上に成り立ったような映画。だからなのか、そのお約束に頼りすぎて肝心の父娘の絆に伝わってこない。毎晩、娘がパパに会いに行くという行為が大切なのではない。そこに至る心情を描かなければ。[星2つ(満点5)]」って具合。これもずいぶん偏った映画の観方だなぁ。論難するのはちょい難しいけど、渡辺センセイご提案のような心情描写をするとコテコテになってかえって嘘臭いんじゃないかなぁ。わかる人はアレ(引き離された父が近くに越してきたと聞いた夜から、毎晩脱走する娘の、簡潔な繰り返し描写)で充分、その決意や猪突猛進さや頑固さ(頑なさ)などの心情が伝わるのではないだろうか? でも「コイツ映画をちゃんと観てないんじゃないか?」と本気で腹が立つのは、もうひとりのクロスレヴュアー馬場広信センセイの評だ。「ウソならもっと巧くつけ!!→コーヒー一杯入れられない知的障害者が、なぜ赤ん坊のミルクを作れるのか!?子供はどうやって言葉を覚えたんだ??ハリウッドの感動ものに理屈を求めるのは野暮とは言え、ここまで設定が杜撰だと文字通り話にならない。それでいてさりげなさを装う映像と演出に苦痛をおぼえた。わがM・ファイファーに免じて★おまけ。[星1つ半(満点5)]」……。このセンセイは、サムはまともに言葉も喋ることができないとでも思って観てたらしい。フツーに観ればそんな風には思えないはず。ドモったり少しだけゆっくりだけど日常会話はかなりできるようにちゃんと描かれているし、さらにビートルズに関してのサヴァン的知識なんてのを応用した比喩的にも高度で洒落た会話なんかもしているのに! まったくドコ観てんだバカ!って感じ。ルーシーが最初に喋った言葉がお向かいさんの名「アニー」で、5番目がサムの友人「ジョー」だって映画内の描写からも、「どうやって言葉を覚えた」か察することくらいできるはずだ。赤ん坊はそのお向かいのアニー・カッセルにもちゃんと世話をしてもらっているし、サムの友人やその保護者も要所要所で登場しているんだから、娘が言葉を覚えるのに差し障りがあるなんてちっとも思わなかったんだけど……。だいたい「コーヒー一杯入れられない」ってのは、裁判所に行く前に客が大勢来て慌てて(精神的にもプレッシャーを感じていて)失敗したシーンのことを言ってるんだろうけど、これもフツーに観てれば、落ち着いてれば普段はできるってわかるはず。スターバックスに行ったことがあればバリスタの作業がかなり高度なマニュアルに基づいていることくらい知ってるはずだし、もしそれができなくて最初から失敗しているのなら、すぐ(前日とか朝の内に)掃除係に格下げになってるはずじゃん。この馬場広信センセイって、ひょっとして「知的障害者」に酷い偏見でもあるのかしら? とにかく「野暮」を通り越して、かなり初歩的に「杜撰」な映画の観方しかできていないと思う。確かに一見アリガチな「感動もの」というスタイルであることは認めてもいい。けど、そうだからといって、どうしてこんな的外れな酷評ができるのか? 口真似して返すなら「ケナすならもっと巧くやれ!!」って感じだ。彼の定位置であるクロスレヴュー欄の三段目は、前任者の神無月マキナも時々ヘンな短評を書いていた(せいでクビになった?)けど、どうもエキセントリックさが売りってなタイプが続いて問題アリだなぁと思う。まあ普段は笑って許せるんだけどさ……。しかしTVブロス14号の同じコーナーで、この馬場センセイが『SW2クローンの攻撃』をベタ褒めしてるのも、またナンギな気分だ(僕は若干批判派なんで)。ダ・ヴィンチ8月号でもホメてるけど、週刊プレイボーイにも時々書いてて、やっぱり『クローンの攻撃』を同じパターンで褒めてたりする(26=6/25号)。ソッチではレギュラー連載の女子大生かOLらしき2人組(数人いるらしい)が『アイ・アム・サム』をそれなりにちゃんとホメてたんだけどなぁ(25=6/18号。こっちは26号で多くの提灯批評家が褒めてた『模倣犯』をきっちりケナしてたのも印象深い)。だから週プレは彼女達に免じて、ま、ヨシとしよう。『アイ・アム・サム』をケナす評は他の雑誌でも見かけた。週刊文春6/13号の「シネマチャート」というクロスレヴューでも満点の☆3つはなくて、5人の評者のうち2人は☆1つ(「損するぞ」の★は無かったけど)。「破廉恥なまでに作為的なソープオペラ」(芝山幹郎)とか「主人公を子を持つ父親として設定したのにその性生活の描写は避けるという欺瞞。美少女の子役臭ふんぷんの芝居にも閉口」(中野翠)とか……。プレミア8月号の作品評も、富永由紀曰く「主人公の知能が7歳程度だからといって、作る側の思考能力までそれに合わせる必要はない」云々で[★2つ半]と書き、グレゴリー・スター編集長まで「この映画は繊細さとはおよそ無縁」とか「果たしてサムに子供を育てる能力はあるのか?」[★2つ]とかワザワザ書いてるのだ(★4つが満点)。ううむ……。さらに6/22放送のTV「スマステ」での慎吾コメントによると、6/15の「オスギハイクラ?」で(文春で☆一つ評価の)おすぎも「1500円」と若干安めの査定だったらしい(それに対して香取慎吾は「ボクは2500円! よかった」と挑発してたのが嬉しい)。

はてさて、『アイ・アム・サム』の何がセンセイ方に(奇妙に不相応な)罵声を吐かせるのだろうか? プレミアの「作り手の知能指数が低い」って言い草なんて大袈裟に言えば差別発言だし(本当に低いのかどうか以前に、知能指数の高低と作品の出来不出来に因果性があると考える差別。そこに通底するIQ信仰が怖いのだ)、劇中のソーシャル・ワーカーそのままの「サムに子育てなんて無理に決まってる」という編集長のコメントも、あらゆるハンディキャッパーの可能性まで潰しかねない高所からの粗い意見で、まさに「繊細さとは無縁」な発言だ。どうも、映画的なテクニックの評価、「映画はこうあるべき」なんて評価基準が映画を観過ぎた人達には歪んで形成されてしまうみたいなんだけど、こういう罵声を誘発する、心理的な何かが『アイ・アム・サム』にはあるのかもしれない。妙にムキになった、批判したつもりのエグい口調には、書き手の裏側に「コレを認めたら何か自分の拠り所としているものが脅かされる」という畏れがあるのかもと勘ぐりたくもなる。これはイジワルく言えば、結局は高学歴者や勝ち組、つまり劇中でミシェル・ファイファーが演じた「LA一番の敏腕弁護士」みたいに、「自分は映画を観る能力が他人より優れている」と思い込んでるようなエリート・サイドの視点からしか映画を観られないことを暴露しているのでは……? だから、ただケナすって立場の人は、まんまとこの映画の罠にハマってるのかもしれない。この映画『アイ・アム・サム』は、まさしく巧く立ち回って他人を蹴落とし、人生の勝者になろうとか思ってる連中に対する強烈な風刺でもあるのだから。劇中で、卵を割りながら「ごめんよ卵さん」なんて言って料理をしているサムを、ただ「お前のパパ、バカじゃない」と決めつけるコナー少年と同類である一部の心ない映画評論家には、この映画の恐ろしくも優れた仕掛けが、たぶん理解できないのだろう。僕も正確に指摘できるかどうかはわかんないけど、できる限りこの映画を面白く観る方法を、そしてこの映画に潜んだ「怖い」ほどの可能性を、なんとか提示してみようと思う。


『アイ・アム・サム』と2つの絵本とビートルズ、そしてメタ映画

『スチュアート・リトル2』の、よくできた「矛盾」について

傑作『ドニー・ダーコ』を語る前に、『タイムマシン』の迷路を彷徨う。

「死者」へのレクイエム――『ドニー・ダーコ』私論