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サイモン・ウェルズ版『タイムマシン』のクライマックスは、こんな感じだ。エロイ族を「食糧」兼「繁殖」用として放牧していたモーロック族のリーダー、ジェレミー・アイアンズ演じるウーバー・モーロック(ニーチェの言う「超人=U bermensch」(注1)のモジリ、カタカナはユーバーにすべきでは?)ってのがえらく賢くて、人の心も読めるし制御できるってな設定なんだけど、アレクサンダーに「お前の心が読める、“もしも、あの時……”という言葉にとりつかれている……エマの死がタイムマシンを生んだ。生きていれば作らない……必然なのだ、私が君らの子孫であるのが必然なように」とか言って、エマが死ななかった場合の幻影を見せさえする。そして「答えは出た。さっさと帰れ」と隠していたタイムマシンを返すのだ。しかも「タイムマシンは簡単だ、記憶を呼び戻せばいい、あるいは未来を夢見れば……」なんて卓見まで吐いてみせる。ここ、大事なトコ。U モーロックは、悟りの果てにヒトの想像力こそを称揚する、超・哲学者の役回りを演じているのだ。のだが、それに言い返して「ひとつ忘れている、“もしも……”だ!」と殴りかかる主人公----!ってのが凄いっちゃ凄い。何が「もしもだ!」なんだか……。んで、二人で格闘しつつ、乗ってるタイムマシンは作動したまま未来へ、そしてウーバーを撃退してから停まったそこには、悪夢的なモーロック帝国の世界が拡がっていた……。で、問題はここからだ。彼はさっきまでいた過去に戻り、世話になったエロイ族の女を助けて「未来を変えるんだ!」とのたまう。え? 過去も未来も変えられないんじゃないの? とか思う間もなくタイムマシンを暴走させることにして、二人で手を取り合って地下から逃げ出す。で、キュイーン…ドカン! んで、モーロック族全滅。……こうして主人公は過去を振り返ることをやめて、エロイ族の教師として、新しい人生を歩みだしたとさ…。っていうラスト・シーンが、1899年の時代で主を待つ老家政婦と主人公の友人との「いい話」と二重になって描写され、何だかしみじみ終わるのだ。うっかり僕もしみじみしちゃったんだけど……これ、おかしくない?





よく考えてみたら、「未来なら変えられるのか? というかタイムマシンがいったん行った未来ってのがこうなら、恋人が死んだ過去と同様、変えられないんじゃないの? それとも未来が二つに分かれてる? いや、多世界解釈(パラレル・ワールド)がOKだったら、過去も変えられるのでは?」みたいな素朴な疑問が生じちゃった。



えーっと、待てよ。別のタイムトラベルSFで考えてみよう。『ターミネーター』だと、未来からシュワちゃんロボットが、過去を変えるためにやって来るんだったよな。あれは因果関係からすると、その過去への移動自体が未来に既に反映されていたってオチだった。シュワちゃんが来なければ、未来の人間側リーダーの父親となる男が追ってきたりもしなかったのだし、それなら機械知性側=スカイネットが何もしなければ、手強いリーダーも生まれなかったはずだったのにねえってことになる。要するにスカイネットって馬鹿じゃんって話だ。だいたい過去を改変すればその未来に当たる「今」はちょっと前の「今」とはガラッと変わるという発想自体が極めて根拠薄弱なロジックなのだ。さっきまでの現実が消えて無くなるなら、そこにいた「過去を変えようとした」意識主体も消えて無くなるはず。結局、過去を変えようとしても変わらない=変えようとしたこと自体が既に組み込まれて未来につながってしまっている----ってのが『T1』の、「唯一世界」観で考えた時間論についての、割と真っ当な結論だった。

ところが『T2』ではその大枠の時間論が破綻して、未来から現在に刺客を送ってきたスカイネット自体が、その誕生を阻止される。未来での「人間VSスカイネット戦争」は起こらな「かった」ことになる。えーと……これは「多世界」観になるワケで、時間線とか歴史線って言われるようなものが絶えず分岐して(時には融合したり世界間の交渉もあったりして)、可能性の数だけ世界があるっていうことになる(イメージとしてはビッグバン宇宙説みたいに時間の始まった瞬間からあらゆる可能世界が無限に分裂増殖していってる感じか?)。機械知性側が勝利した世界と人間側が勝利した世界が並行して存在するってことだから、意識主体がパラレル・ワールドのどっちにいるかでハッピーだったりサッドだったりするワケだ。ここらへんのパラドックスを抱えつつ、『T2』は一応ハッピーエンド側の世界で終わるんだけど、多世界解釈だと根本的な解決になってない=お隣の世界では変わらずに人類は滅ぼされようとしているってことに、かすかな違和感が残るわけだ。いや、もしかして『T2』も「単一世界観」で作られてて、スカイネット誕生を阻止するって人間側の行為も、既に予め繰り込まれていたのかも? つまり登場人物達はそのシナリオ通りに操り人形のごとく「最初の」スカイネット誕生阻止ってイベントを予定通りにやらされて、この事件のせいで未来のスカイネットがより完璧で強力な力を持つものとして後に再誕生する――ってのが真正の単一歴史だった……ってことなのかもしれん。とすると今度は人間側が間抜けでしたって話なのか? ううむ。これ、どちらのツジツマに合わせてみても、何か醒めるヤな感じだよなぁ。

『T1』も『T2』も、ストーリーを追っていく分にはドキドキハラハラなんだけど、実は「時間の神さま」みたいなのに操られてるだけ、全ては決定論=運命は変えられないって構造になってて、もちろん自由意志なんて実はなくって、み〜んな予定通りの行動を(無意識に)させられてたって話なのかもしれない。あるいは多世界解釈を採用するなら、僕らに見えるストーリーだけがハッピーエンドで、公正にまわりのパラレルワールドを見回したら、失敗した場合の歴史がウジャウジャと、それこそ死屍累々と並んでて、結局見せてもらったのは「いいとこ取り」しただけの話かい!ってなことになってしまうのかも。どちらにしても出来レースの興醒め感、つまらなさが心をよぎってしまうのだ。かくして、『ターミネーター』シリーズの場合、過去を変えることで「ディストピアな未来を“よりよいもの”に変えるんだ!」ってスローガンが、後々のメタ思考によってひどく虚しいものになっちゃったりするワケだ。つまり…

【1】結局、その言葉に踊らされてるだけのキャラ達の活躍のおかげで、未来は変わらない=全ては予定通りになる、ってな単一世界の決定論的時空構造の場合にしろ、
【2】他の可能世界のことは見えないフリしようよ、「ディストピアな未来を変えるのに成功したぞ!」ってラインだけ見てりゃ気分いいじゃん、みたいな利己的な多世界ご都合主義選択の場合にしろ、

こうやって作品のメタ構造をよくよく考えてみると、醒めた思考実験ないし論理パズル・ゲームでしかないことに気がつく。「いやそれこそがSFにある科学合理主義的思考の辿り着くクールでロジカルな達観で、そこまで気づいてマゾヒスティックな快感までもを愉しむのが正しい観方なんだよ」って反論はアリかもだけど、どうも……ね。『ターミネーター』シリーズが【1】と【2】、どっちのルールや世界観で成立しているのか、あるいはチャンポンなのか?は、いよいよ製作が決まった『T3』(2003年公開予定)で解決するはず、なのだが……。


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