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※再び映画『タイムマシン』のネタバレ警告! でももはや『ターミネーター』のネタバレさせちゃったし、ネタバレさせんことには話が進まないのだった。

で、だ。映画『タイムマシン』の場合に戻って、なるべく好意的にメタ読みしてみようと思う。この映画は、まず【1】と【2】のルールや世界観をゴッチャにしながら突き進んでいることがわかる。「恋人の“死に方”が変わる」こと自体が【2】の多世界解釈なのに、どうやら「恋人の死」が特異点になっているらしく、主人公のいる世界に隣接したパラレル・ワールドでは、それだけが【1】の決定論解釈=運命とされて動かせない、と仮定できそうだ。ゆえに主人公は自分の世界が【1】決定論的世界だとまず考えてしまう。でも【2】の多世界解釈的な「恋人が死なない世界もあるはず」だから、ソコへの行き方を未来人に聞こうってのが、作品内の論理では「過去を変える方法もあるはず」って台詞になる。で、その未来人Uモーロックの答えは「恋人の死が君にタイム・マシンを作らせたのだから、彼女が死なないならこのタイムトラベル自体が行われないのだ」ってものだった。賢い未来人じゃなくてもわかる理屈だけど、だから「過去は変えられない」のだ。つまり「動機(原因)と結果」の因果関係の論理から、「彼」は、絶対に恋人を救える過去には行けないという結論に帰結する。別のパラレル・ワールドの「タイム・マシンを作らなかった彼」ならば、例えば恋人と結婚して二人の子供を得て幸せに暮らせたりする可能性があったのだ。だが、この映画に出ている「彼」は、恋人を目の前で失うってトラウマと時間旅行の動機が固く結びついているために、「恋人の死」が特異点となったパラレル・ワールドにしかいけないのだ。でも80万年後の世界でどう振る舞うかは、そのトラウマ=因果ほどには特異点を作っていないために、モーロック族の滅んだ場合の可能世界を分岐させて、それを選び取ることができたのである。もっと深く考えると、「彼」が過去で恋人を救えるって可能世界も考えうる。そこで因果関係にこだわるなら、彼女を救ってから出発した時間に戻ってみると、その「彼」は彼女が生きている改変したパラレル・ワールドの未来ではなく、「恋人が死んだのでタイム・マシンを作った世界」にしか行けないって「縛り」を作ればツジツマは合う。もっと考えれば……ってのは各自でやってもらおう。ひょっとしたら戻れるのは恋人が死んでしまった可能世界だけじゃないかもしれない、因果の裏をかく方法もあるだろうし(タイムマシンを作った時点の「彼」には死んだと思わせておけばいいのだから、替え玉を使うとか、時間旅行に一緒に連れてくことで「恋人が失踪」したショックでタイムマシンを作った……なんてパラレル・ワールドもあるかも)。いや、それよりパラドックス問題なんて考えなくていいムチャクチャな行動をしてみる手もある。例えば少女時代の恋人をかっさらってきて、無数の時間線を横切りながら旅して、失敗したらすぐやり直せるようにオートリセット(レジューム)機能なんかをタイム・マシンに組み込んで(=事実上の不死!だ)、んで住み良い場所を見つけるまで新婚時空旅行を愉しむとかね。そんな風に「何か」or「誰か」が要請する因果関係すらぶっちぎるってのも、不可能ではないはずなのだ。ただこの映画作品内の「彼」が試みなかっただけで……。ってな感じで、実はあらゆる可能世界があるって風に多世界解釈では考え得るのだが、相手の心が読め、全知全能っぽく振る舞う、神のごとく賢いはずの未来人はなぜか【1】の決定論的にしか考えてないので、うっかり逆襲されてしまうのだった。――こう考えるのが、ひとつの無難な解決法だろう。つまり作中人物は「決定論的」なルールがあるとしか考えられない、でも無茶してみたら「多世界的」に過去も未来も改変可能だったりする、その匙加減は意識主体となる主役の都合による…って時間論が考えられるのだ。

もちろん、多世界解釈だとやっぱりディストピアな未来も並行的にしっかり存在する。けどタイムマシンも壊れたことだし、この映画に出てる「彼」は、その悲惨な世界のことは考えずに済む。「彼」がまだ「少し都合のいい」決定論的解釈で考えているなら、「世界は“上書き保存”されたので前の未来は消えてしまった」とでも思っているかもしれない……。実際、「彼」があっさり失敗して悲惨な死を遂げた場合の世界とか、Uモーロックに言われるがまま元の時間に戻った場合とか、あらゆる可能性が考え得るんだけど、「彼」が意識主体として存在する世界が「彼にとって唯一の世界」なのだから、他の無数の世界のことなんて、無いことにして見捨てちゃってかまわないのだ。ああ、なんて利己的な時間旅行! ――っていうか、この解釈で合ってるのか??



1本しか時間線が無い場合も、無数に時間線が増殖する場合も、何故か1本しかないものって考えちゃう僕らのモンダイってのがある。だって僕らは「この世界、この時間」にしかいないから――なんだけど、じゃあ何故タイムトラベルなんて空想しちゃうんだろう? そう考えて、ちょっと逆転発想してみようと思う。

SF者(あらゆるものがSFに見えてしまう人)にとっては、あらゆるフィクション(小説や映画や漫画etc.)が「パラレルワールドSF」である。だって、僕らのいる現代の日本を舞台にしている普通小説(SF者はSF以外の純文学や大衆小説をこう呼ぶ)でさえ、現実の世界ではないからだ。つまり、そんなにご都合主義じゃ無いはずの現実に、何らかのロジックや因果性=何かがおこって解決するとかって実際はあり得ないような起承転結とか序破急とか自同律とか夢の論理なんかを持ち込んで、お話らしくしたものでしかないのだから。そういう意味で、それらは全て、現実に隣接するパラレルワールドを舞台にしたSF小説なのだ、と言い切ってしまおう。ノン・フィクションだとか私小説すら、現実世界とは違う並行世界の論理で貫かれていたりするのだ。世の中の事象が必ず善悪で判断できたり、なぜか善玉とされた方が正しいって感じで描写されていたりするけど、実際の現実世界がそんなにわかりやすく構成されてるなんてことは実はあり得ない。そこにはこの現実世界から何かを引き算したような作為的な省略や隠蔽がなされいるのだ。み〜んな仮構世界なのである。もちろんその世界を生きている者にとっては唯一の現実世界に思われているんだけど。だから文壇・論壇やらの社会批評すら、パラレルワールドSFが表現する寓話レヴェルで考えておくべきだって個人的には思うのだ。フィクション(言葉を基本に作り込まれた、ノン・フィクションも含むあらゆる虚構)に対する、この「可能世界=多世界解釈」論的な世界観こそが、SF者の基本姿勢である。

小説や映画といったフィクション(人間限定の言語や論理で構築されたもの)は全て、この現実世界とは別物であり、逆にあらゆるパラレルワールドSFがそうしたカタチで常に無数に生み出され続けているのだ、と考えるところから、もう一度仕切り直してみようと思う。


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