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これがさらになんでもアリな多世界=並行世界に寄ると、ファンタジーの異世界ものを極北にして、ツジツマが合わない改変世界(ヒトラーが勝利した場合の世界とか)もOKになり、さらに利己的な「軍国日本が正しかったかも」ってな「シミュレーション戦記」グループなんてのも量産されることになる。こうなりゃそれぞれのパラレル・ワールドを横断できる者・組織の存在を設定する手も出てくる。この並行世界間交流にもいろいろあって、例えばアニメ『聖戦士ダンバイン』(『リーンの翼』など副産物も多い)とか小野不由美『十二国記』シリーズのような、日本の隣にバイストンウェルとか疑似中華戦国世界ってな異世界があって、こっちとどこかで時間的にも繋がってるSFファンタジーなんてのが代表例だろう。もちろんイギリスと『アリス』や『ナルニア』のつながり、アメリカと『オズ』シリーズってな海外現代ファンタジー文学が嚆矢だ。栗本薫の大長編異世界ファンタジー『グイン・サーガ』シリーズも、我々の世界の超未来か超過去で「三国志」+「中世欧州戦記」+「エイリアン侵略もの」が繰り広げられてるってな設定なのだけど、キャラの思考法がどうあがいても現代人なので並行世界ものと考えた方が無難かもしれない。こうした並行世界では、各作家のルール毎に世界観・歴史観が創られて、作者という神=創造主の思うがまま、キャラ達は悲鳴を上げたり溜飲を下げたりすることになる。作中では自分のいる世界が唯一の世界だと思われている場合がほとんどなのも、あらゆる純文学やら普通の大衆文学のキャラと同様であることに注意しておこう。

少し古いシチュエーションだと、ある作品世界に異世界からの訪問者が登場するのが発端になる。たいていタイム・パトロールや時空監察官か、それに追われる時空犯罪者って設定で、自由意志が認められるなら(ヒトが)混乱するほど歴史を改変できるワケだから、利己主義と利他主義の対立構造が生まれるのだ。ん? 利他主義? これが厄介な問題だ。一方で万能の神に定められた決定論的時空世界があり(各宗教によって違う世界があるのかもね)、それとは別に「人間」の自由意志で管理される無数の可能世界のグループがある。「変えてもいい歴史と変えちゃいけない歴史」が「人間」の判断で弁別され、裁かれたりするワケだ。隣り合った世界線同士で戦う(滅ぼしあう) 「時間改変戦争」なんて発想すらでてきて、実は深遠な意味を持つ「時間を操作する」って概念自体が、酷く矮小化された戦争・侵略活劇になる場合もある。全ての多世界を俯瞰するさらなる「メタ神さま」なんてのも想定可能だし、そうなると多世界を内包する多世界って話になって、『百億の昼、千億の夜』とか『火の鳥』になっちゃう。さらにメタのメタの…と無限に続く時空構造を考えだすと、もはや「SFならではの無常観」ってのも極まり過ぎて、感情移入すら困難な次元に突入してしまうことになる。はてさて。



この「感情移入できる範囲」ってのがクセモノで、いくら理論上で多世界ないし可能世界が考えうるとしても、あるいはタイムトラベルが理論上実現できるとしても、僕らは「この世界、この時間」という唯一の、かけがえのない世界にしかいないって強固な観念があるために、どうしても「ご都合主義なゆるい決定論世界観」が要請されてしまうのだ。そこには僕らの「人間中心主義」、たぶん感情移入できる範囲までしか精神的に動かされない性質があって、ヒューマンじゃない対象(異星人や異生物、ロボットやミュータントや機械知性、そして神さま!)に対してはワザワザ「擬人化」しないと気が済まなかったりするし、そうしないと理解(共感)できない。時空改変にも「人間中心主義」な性質が反映され、突き詰めれば「自民族中心主義」、「自己中心主義」にすらあっさり辿り着くような帰結が歓迎されることになるワケだ。要するに「エゴイズム」の話だ。僕らはみんなエゴイストなので、一見して「利他的」なふるまいさえ自分に都合良く解釈しちゃう癖がある。イエス・キリストの十字架刑も、キリスト教徒個人にとっては「自分たちのために犠牲になってくれた」と論理を飛躍させて考えられてしまう。これはすり替えの基本形で、「自己犠牲」=「利他行為」という短絡はあらゆる「犠牲者認定」競争に慣用されることになる。「自分が犠牲になった」と仮定して感情移入し、生き残った/生き続けている負い目を隠蔽し、犠牲を要求した「悪い」側を敵視するエゴを形成するのだ。理路からすると本来は「生き残った全ての人類」が罪を負うのだが、キリストを殺したユダヤ教徒が「悪い」として延々と迫害されるという転倒がヨーロッパで起こり、前世紀にはホロコーストを生む。で、今度は犠牲者のユダヤ人の側に立つ人々が「悪い」のはナチス・ドイツであって我々では無いという感情移入の仕方をして、キリスト教のエゴ=覇権主義性は隠蔽されたまま「建前上の信仰の自由・基本的人権の保障」が提唱され……今世紀初頭のNYテロでは反キリスト教というより反アメリカな犠牲者意識を持ったイスラム教系異端が、直接のテロ犠牲者を持つ覇権国家アメリカとそのアメリカ側に立つ人々(我々日本人の公式見解も含む)に圧されて、「犠牲者認定」競争はイヤな入れ子構造で「戦前」の様相を際立たせることになってきている。アメリカ側は「利他行為」である根拠を「自己犠牲」に求めるしかないし、そこに「感情移入できる物語」を付加することが必須となる。で、それをメタ読みしちゃう連中は「人間的におかしい」と感情的に反撥されるようにもなる。これは「反北朝鮮派のでっちあげた(感情移入できる)物語」で嘘だと、親北朝鮮派などの一部でされてきた「日本人拉致問題」を、あっさり北朝鮮自体が事実だと認めちゃったという最近の事件も同様の構図。軍国日本の犠牲者だった国と、最近まで密かに日本人が犠牲者となってきた事件が、庶民の間では「感情移入できる範囲」で鋭く対立するワケだ。

いかん、話が生臭くなってるような……。余談に逸れ過ぎるのをやめて、そういう「エゴイズム」がタイムトラベルSFや、それも含むパラレルワールドSFの「ご都合主義」度合いにも反映していることは、以上で確認してもらったことにして……。ではそういう人間中心主義から逃れられない人類が、では何故タイムトラベルなんて空想しちゃうんだろう?ってな本稿でのモンダイに戻ろう。というか、映画『ドニー・ダーコ』論の前ふりってレヴェルを遥かに越えて、なんだかややこしい問題にまで突入し過ぎているのだが……。


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