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そもそもタイムトラベルってのは、「人生をやり直したい」って人間の願望を描いたものであるはず。いや、その初期作品は、例えば中世と19世紀の「歴史観のギャップ」を愉しむ『アーサー王宮のコネチカット・ヤンキー』(1889)や、ダーウィンやマルクスら当時の新思潮の影響から「歴史観を延長して未来を予測」する原『タイム・マシン』(1895)などのように、基礎教養としての「歴史意識」の成立が奇想を生むという「異世界冒険譚」の空想科学的亜流だった。同時期の短編小説「アウル・クリーク橋の一事件」(1891)も、古代から神話や民間説話の類として流布していた「臨死体験譚」「地獄巡り譚」「桃源郷訪問譚」といったオカルト幻想文学的「異世界冒険譚」を、リアルな別の時間世界として垣間見るスタイル(異空間→異時間)に仕上げたものだ。ここで「やり直す」という願望が挿入されることになる。思考実験としての「未来予測」がコア・アイデアだった原『タイム・マシン』が未来を見てくるだけなのに対し、そのツールでしかなかった「時間を行き来できる」ってアイデアから膨大なタイムトラベルものが生まれて、「人生をやり直せたら」という発想と結びつくのだ。同時に「やり直し」たら今の人生そのものが変わることになるのでタイム・パラドックス問題が生じ、その解決のための知的遊戯が「時間」というものの性質に関する推理を要請することになる。基本的には時間移動による改変は認められない、ではどうツジツマを合わせるか? 「既に起こったこと」と「これから起こること・起こそうとすること」の因果関係が混乱するワケだから、その混乱を混乱でなくすために、パズルのような論理のハメ込みで整合性を考える。考える作家も人間だから、人間の考えうる「整合性」だ。読む方も人間だから、その時点で常識的な論理でないといけない。大昔なら「神の決めた理屈」だったのが「近代的人間の考えた理屈」で整合性が図られるのだ。だから「神の死」以降に華開いたSFジャンルは、合理的/科学的な論理思考という「神の不在のロジック」が何より至不命題とされることになる。

例えばハインラインの中編『時の門』(1941年初出、ハヤカワ文庫『時の門』所収)というタイムトラベルSFに対し、広瀬正「『時の門』を開く」(1963年初出、集英社文庫『タイムマシンのつくり方』所収)でそのロジックの整合性が検証された、なんてのが論理方面でのトピックだろう(『時の門』には「ロジックの誤摩化しがある」とされていたので、それがどこかを突き止めてみたワケだ)。さらに最近のトピックでは、原『タイムマシン』の正統な続編(と遺族に認定された)、スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』(1995年、ハヤカワ文庫1998年)がある。ここではオリジナルに無かったタイム・パラドックス問題が盛り込まれ、俗流エヴェレット(多世界)解釈というウェルズ以降に発想された「ロジック」を持ち込んでの、さらに雄大な時間論が展開される。実はこれはウェルズSF論にもなっていて、その伝記的事実や作品群への批評的な側面を有していることも見逃せない。つまり時間論に含まれる「歴史観」なり(評伝などで強調されるウェルズ自身の悲観主義的)「倫理観」が批判的に検証されているのだ。この続編小説、結末がサイモン・ウェルズ版の映画『タイムマシン』に微妙に似ているのも興味深いんだけど……。どうも映画は続編小説より思想的に後退している、と言っていいのか、「このくらいでないと感情移入不可能」と考えられたのか、それにしては映画批評家、特に女性陣の共感を得損なっているのが可哀想と言うかなんというか……。スターログ13=夏号P47での清水節センセイの「過去の名作の足元に及ぶことはなかった」「この映画には、未来や過去を訪れたいと切望するマインドが欠けている」評や、SFマガジン9月号P114の渡辺麻紀センセイの「残念ながら曾じいちゃんの知性は受け継いでいないようだ」ってな評は、「すぐ恋人への想いもふっきれてしまう展開」(清水)とか、それが「後半の展開にいまひとつ活かされてなく、中途半端な印象」(渡辺)とかっていう、まず「エモーショナルな(=人間中心主義的な!)動機の処理問題」に焦点があっての酷評ではないか、と邪推してしまったりするのは、僕が男の子だからかもしれんなあ……。

何度も言うけど、だいたい「主人公にとって些細なことなら変えられる」という時空構造設定こそがクセモノなのだ。少し振れ幅の大きい時間軸、くらいの決定論的世界解釈が採用されていること、つまり時間旅行と因果関係のある「発明家の恋人の死」だけが動かせず、他は少々変わっても「概ね同じ未来になる」って考え自体が、どこか変な(「ロジックの誤摩化しがある」?)はずなのに、その「恋人の死」こそが(この現在時に)観る者の「感情移入可能性」を保証してしまっているらしい事態ってのが、実に興味深いのだ。別の例で考えてみよう。レイ・ブラッドベリの短編に「いかづちの音」(1952年初出、新潮文庫『恐竜物語』所収)という、非常に厳格な時間環境管理の上で「恐竜狩り」を行う時間旅行会社、タイム・サファリ株式会社の話がある。つい主人公のハンターが順路からはみ出して古代の蝶一匹踏みつぶしたおかげで、戻ってきた現在時には使用文字がところどころ読めないものに変わり、出発前に決まっていた合衆国大統領選挙の結果も、主人公達が支持していた人物ではなく対立候補に変わっていた!……ってなオチで、「たった一匹の蝶の死」で未来が変わるタイムトラベルSFの例として挙げられることが多い。映画『タイムマシン』への反証例に使えるかと思ったんだけど、これも今までの議論を経た上でよく読むと、そのおどろおどろしい文学的表現の華麗さの奥に、「?」なロジックが見えてしまうのが難だ。ここでの古代の恐竜狩りの理屈は、その恐竜が事故死した同じ時間・場所ってのを、事前のタイムトラベルで綿密に調査し、事故死する代わりに銃でハンティングを楽しみ、銃弾を回収してツジツマを合わせるというもの。死んだ恐竜の前で写真は撮れるが、何も持ち帰ってはいけないってルールだ。だけど、これでツジツマが合うから未来は変わらないって考え方は、やはり「人間中心主義」から逃れられていない。さらに蝶一匹の死が6000万年後の歴史に与える影響にも変なバイアスがかかってて、文字が一部異様なものになってるという無気味さはまあ悪夢的な面白さがあるにしても、ちゃんとアメリカ合衆国があって、その大統領候補者達も同じで…ってな自国民中心主義な「わかりやすさ」には、なんとも苦笑せざるを得ない。アメリカ人SF作家がアメリカ人読者向けに「感情移入可能性」を考えているという限界が、この小説が発表された50年後にアメリカ人ではない読者である僕が読んだ時の奇妙な違和感=感情移入の微妙な困難を呼ぶのである。ま、これ自体が「SF的異化作用」、つまり50年前のアメリカ人の体の中に精神的タイムトラベルした場合という、優れてSF的な経験でもあるってな肯定的な評価も逆にあり得るんだけど、たぶんハリウッド映画『タイムマシン』で恋人の死をないがしろにしていることが気になる者には、同じ「アメリカさん」への奇妙な違和感のみが無意識に沈澱してしまうだけなのかもしれん。でもそれもまた「自己中心主義」ってエゴイズムの罠にはまってしまっている恐れがあるってことだけは、ちょっとだけ頭の隅に置いておいて欲しいし、僕自身も強固な「自己中」精神(自分の意見だけが正しくて他の人の映画の見方をけなしまくる悪い癖)を持っているのを自戒しなくちゃと考えつつ(笑)、次回へと続けようと思う。

というワケで、今回は映画『タイム・マシン』を中心に、延々と厄介な考え事をするハメになってしまった。途中を端折ろうと何度も試みたが、わかりやすくしようと書き直す度に長くなってしまい、もはやこの長さがギリギリの許容範囲、もっとクドイ説明をご希望なら、いくらでもできそうなんだけど(笑)。わかってもらえたかなぁ。次回こそちゃんと『ドニー・ダーコ』の話をするぞ。っていうか、もう大事なことは言っちゃった気もするんだけどね、はてさて……。

Text:梶浦秀麿


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