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で、三原順の「人獣化」視点のある面での「正しさ」を肌で理解してしまうと、現実世界での社会性に齟齬が生じる危険もあるワケで……つまりギリギリ踏み止まっている(ないし超越している?)と読み取れるにも関わらず、一括りに「現実逃避」系にされてしまうので、その誤解を解くのがメンドウな作風でもあるのだ。しかもそういう評価に甘んじる(開き直る?)「少女漫画」特有のリリシズム(タニス・リーやアン・ライスら耽美派少女漫画風SFファンタジー小説家にも共通するけど)ってのもあって、さらにメンドウなんだけど……。

うまく言えないけど、疎外論的な視点で擁護するなら、こんな感じだ。――「健全」な普通人なら、この現実世界の欺瞞や矛盾や脆さを声高に言い募ってはいけない、実は建前で辛うじて成り立っているような人間社会に順応するには、そういうのに気がつかない振りをするコツがいる。そのコツが呑み込めない人(つい「王様は裸だ」と言っちゃう子供みたいなヤツも含む)は、よっぽど強く賢しくなければ生き残れないって仕組みになっているのだ(←断言したりして)。だから強くも賢くもない者、自らの「弱さ」を自覚(or肯定)する者なら、例えばこの世界と並行して存在する「人獣化世界」で遊びつつ、日常世界では「信念を持たない事勿れ主義者」と思われるように努めなきゃいけない。さもなければドニー・ダーコのように「狂ってる人」として扱われるのに、甘んじるしかないのだ。――そのどちらかの覚悟があるかないかってギリギリのところに「いわゆる現実逃避系」との差があるはずなんだけど、この評価は実のところ、かなり際どい微妙さがある。そして『ドニダコ』もまた「現実逃避系」との際どい位置にあり、その差となるのは「ある覚悟」の有無にかかっているのだが…‥。

……えーと。大幅に横道な「三原順の漫画」論の続き(あと大島弓子の『綿の国星』から『グーグーだって猫である』までの漫画作品も「人獣化世界」系の問題群であるとか、いやさ内田善美やジャック・フィニイのSFファンタジー作品で「現実逃避」ノスタルジーとして批判的に語られもする「脆さ」の擁護方法とかもだけど)は、また今度、別の所でするとして。そろそろ映画『ドニー・ダーコ』でいえば…‥って話に絞ろう。



さて。この「人獣化」ってのは、実はスーパー・ヒーローもの(アメコミ)の「超人化」とシンクロしている。「人獣」も「超人」も、ある基準からの見え方がヒト以下であるかヒト以上であるかの違いだけで、ヒトから疎外されたりヒトより善いもの(突き詰めれば「神様」まで行き着く)とされたりする事態への、同じ寓意を持っているのだ。だから『ドニダコ』ではスーパー・ヒーローが言及されると共に、同じ様々なヒト以外のものが、登場することになる。

『ドニー・ダーコ』のセルDVDに収録されてる削除シーンでは、グレアム・グリーン『破壊者』の代わりに教材となった『ウォーターシップ・タウンのうさぎたち』のアニメをめぐる議論があって、D・D(ドニーの方ね)は動物の擬人化=人獣化描写を「死んだウサギに同情しても仕方ない(本当のウサギはただ本能で食ってセックスして死ぬだけなのに)」と大人気なく皮肉っていた。で、「間違ってるわ」と鼻白んだグレッチェンの怒りを買い、ポメロイ先生は「奇跡や予言についての視点を忘れてない?」と諭すことになるんだけど、ここが一番「ヒト/ヒト以外」の差異が問われる場面だ(明解過ぎて没ったみたいだが)。

ドニーがアニメ版『スマーフ物語』の下ネタで盛り上がる友人達にムキになって反論するシーンは映画でもあったが、このノルウェイの妖精をモデルにした青い小人達の村の物語ってのも、スーパー・ヒーローや喋るウサギと同様、「ヒトでないものにヒトのように振る舞わせる」問題系につながっている(あ、『スマーフ物語』もしくはテレビアニメ『小さな森の妖精あいあむ!スマーフ』については、ココが詳しい)。劇中の季節感表現にもなっているハロウィーンの仮装、死者やお化けのように振る舞う伝統の祭りが、「ヒト」と「それ以外のもの」を想う儀礼であることも、またドニー達が名画座で観たゾンビ(『死霊のはらわた』)とキリスト(『最後の誘惑』)という「ヒトにしてヒト以外のもの」(死んで甦る者の極端な2例!)に仮託された恐怖と憧れという表象も、あるいはドニーの母が映画の冒頭で読んでいたスティーブン・キング『IT』(よく見えないけど)の、「It(それ)」と呼ばれる非人称代名詞の怪物にも、この問題系はつながっていたりする。それら全てが、実は「ヒト以外のもの」によって「ヒトとは何か」を想うフィクションであること――それが、主人公ドニーとドニー以外のものの複雑な関係を、単なる「狂人/健全な人」の二分法ではないものとして描くための材料になっているのだ。


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