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そしてドニーが、「主人公の資格」を試されるスーパー・ヒーロー=「正義の味方」であるってのは、これまで書いてきた通り。もちろんダブル・イニシャルであることだけがその資格ではないし、「人獣/超人」との共通性についても実は本質的な要件ではない。彼がスーパー・ヒーローなのは「物語の主人公」としてやるべきことを、その要請に苦しみながらも全うするから、である。では「物語の主人公」は、いかなる資格で「主人公たりえる」のか?

基本的には他人より秀でていたり不幸だったりすればわかりやすい「主人公」像なんだけど、それだけじゃツラい。例えば『ドニダコ』の主役を演じたジェイク・ギレンホールの前主演作『遠い空の向こうに』は、親や周囲に認められない不幸をバネに、好きなロケットの自作に一途に打ち込んだ少年が、ついに認められ、晴れてNASAの科学者になるって物語だ。だけど主人公にボンボンであることの自覚描写がない(炭坑町の労働者のボスの次男坊なので、協力者も資金もなんとかなるのだ)のが瑕だったりする(実話をもとにしているが)。だからそれなりの感動傑作ではあるが、その一点で「主人公の資格」の有無について個人的には留保がつく。

逆に例えば曽田正人『め組の大吾』という消防士もの少年漫画には、「主人公の資格」に対する強烈な問いかけが存在し、物語がスーパー・ヒーローを要請する生理を極限まで追究していて、メタ物語としても読める大傑作だと個人的に思ってたりする。連載休止中のバレエ漫画『昂-スバル-』(青年誌にバレリーナ成長譚!)もその線上にあるが、こうした「主人公の資格を試される主人公」の、それ故の「歪み」にこだわった「物語」にこそ、僕は惹かれるのだ。だから『Sons』へと遡行する<ムーンライティング>シリーズの不器用なまでのこだわりに、『ドニー・ダーコ』の「スーパー・ヒーロー」話がダブってくるし、なによりドニーがそういう意味の「スーパー・ヒーロー」であること、そしてそれこそが『ドニー・ダーコ』という物語の根本構造となっていることに、強く惹かれてしまうのだ。つまり主役を張るからにはそれなりの「何か」が必要で、できうれば「それ無しには物語自体が成立しない」くらいにまで突き詰められた存在理由が必要だと個人的には思うからである。

存在理由? フィクション=物語ではない「現実」に生きる僕らに、わかりやすい存在理由なんてのは(本当は)無い。誰かや何かのために生きるってのは後づけだし、歴史上の偉人は偉業を成し遂げるために生まれてきたって考え方も後づけだ。いや、「運命」を信じるなら、全ての出来事はその人の存在の理由になるかもしれない。でもそれはリアルな人生を「物語化」することだ。「運命論」的な考え方は、前回『タイムマシン』の話の中でみたように、「決定論的時間観でできた可能世界」でのみ通用するんだけど、この現実世界がそういうカタチにできているかどうかは立証できない。ただ、「物語」の中では「運命的に主人公であること」が可能だ。その場合、「主人公」は「神ないし物語創造者に選ばれた」という理由=資格で主人公なのである。だが、ただ「選ばれた」から主人公ってだけの物語は、陳腐だ。少なくとも「選ばれた」主人公には、物語世界の全体と等しいくらいの意味を持つ瞬間が欲しい。できうれば物語世界そのものを破壊するとか、救済するとか、世界のあり方そのものの意味をガラリと変えちゃうような…‥そんなことまでしちゃってこそ、主人公を名乗る資格があるのだ、とまで言うと極論だけど。

神話伝説の類いだと基本は「何かの苦難を経て成長する」って通過儀礼の要素があって、それが「さまざまな試練を経て王になる」だったり、逆に「悪い予言を聞いておきながら知らぬ間にその通りの行動をしてしまい破滅する」とか、「神の命じた通りに全人類の罪を被って死んで神の子になる」とか、「善と悪の闘いに巻き込まれて勝つ/負ける」とかってのが物語の主人公だ。それが「主人公は目的に向かって努力し、友情を大事にすることで、ついに勝利しました」なんて旧・少年ジャンプ式の物語パターンにまでつながっている。おおよそ半分がヒロイックな情動を呼ぶ効果を持ち、残りが教訓的な効果となる場合が多い(「努力」とか「正義」とか「友愛」とか「勇気」とかってのが教訓ね)。童話もアンチ・ヒーローによる教訓譚にされちゃう場合が多い。赤頭巾が寄り道したり誘惑に負けた「ために」狼に喰われてしまう場面で終わる、もともとの『赤頭巾ちゃん』とかね。『ピノッキオ』も最初の新聞連載時の最終回では、欲をかいた「ばかりに」悪い奴に騙されて森の木に吊るされておしまい、だったらしい(3/22放送の「世界ふしぎ発見」ネタ)。もちろん過ちを悔いて「いい子」になるヴァージョンにも教訓は残る。で、アメコミのヒーローも最初は単純に「正義」のために悪を懲らしめたり、映画版だとそのために自分を犠牲にする覚悟を強いられる。さらに最近のSFアニメとかだと、クライマックスに「人類存亡の危機」とか「宇宙が破滅する寸前」とかってのが用意されてるパターンだらけ(なのも考えものなのだが)。やっぱり主人公は自己を犠牲にして「世界を救う」のだった(でも生き残ってめでたしめでたし、とかね)。


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