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さて。ドニーが「主人公の資格」を試されるスーパー・ヒーロー=「正義の味方」であることは、まだ舌足らずだけど、以上で説明できたことにしよう。それよりなにより「夭折者」であるってことについて、最後に語っておくことにする。

「フランキーを憶えてるか? 高校時代の同級生だった。死んだろ、卒業式の日に。あの時、彼は死ぬ運命だったんだと思ったけど…‥。ひょっとしてドニーも同じかもな」――そうドニーの父が、母になにげなく語るのは、「なかったことになる世界」でのことだ。そしておそらくドニーが救った世界において、彼は同じことを思うのだろう。息子は、若くして死ぬ運命だったんだ、と。それ以外に他者の死を納得する方法が無いかのように…‥。

人は、いや“死神オババ”ロバータ・スパロウに言わせるなら「生き物は皆、孤独に死ぬ」。それは真実だ。では何故、僕らの知っていたアイツやあの人や、その他大勢の早死にした人々は、自分より先に死んでしまったのか? 何故、残された僕らは彼らに対し、何となく腑に落ちない気持ちを持ち続けるのだろうか? 「死ぬ運命だったんだ」なんてのは神の介在する決定論だ。決定論をとらないタイムトラベルSFでは、死ぬ運命なんて回避できるはずだ。因果律さえパラドックスでかいくぐるのが、娯楽SFによくあるパターンじゃないか(ってのは前回散々考えたことだ)。でも、やっぱり他者の死を解釈しようとすると、僕らは「ただ偶然、僕より先に死んだだけ」と唯物的に考えてみながらも、「神の定めた寿命とか運命」のようなものが、あるかもしれないって疑惑に捕われることになる。でも何故そう定められたのかはわからないのだ。

中学や高校時代に、同級生が事故や自殺で死んだりしたのを、僕は憶えている。自殺については自分でも少しは考えたことだってある。「僕が死ぬ夢を見た」とティアーズ・フォー・フィアーズは歌うけど、そんな想像も勿論してみたりした。「これまで見た中で最高の夢」とは思わなかったし、実際、死にもせず生き続けて現在に至るんだけどさ。でも、あの遠い昔、同級生の葬儀に参列して、泣きじゃくる女の子や、妙に神妙な男どもの中にいて、何だかひどく場違いな気分を味わっていたような記憶は、今もある。あれって何なのだろう? 祖父や祖母が死んだ時や、今でも好きな俳優や作家が死んだニュースに接した時には、やっぱりこういう「喪の気分」が湧いてくる。

たぶん、僕らは生き残ってしまったことに、罪悪感があるんじゃないか。「生きていることの負い目」が宗教のはじまりだ、なんて言い方もあるし。つまり自分が生き続けるために周囲の動植物を殺して食べ、呼吸することで空気を汚し、自分以外の生き物の生存可能性を奪っているって事態の「責任」について、「生き残ろうとする自己保存本能がある」って説明以上のもので考えようとして、「ヒトが万物の長である」とか「神を信じるから天寿を全うできる」とか思い込むワケだ。でもそこには欺瞞があるし、神様もたくさんいるみたいで喧嘩(大量虐殺)の種になり続けてしまう。とはいえ、ただ偶然に「孤独に」死ぬことには耐えられず、「自分では無く彼が死んだ」ってことの意味を、なんとなく理由があるかのように考えたくなってしまうのだ。

「夭折者」、若くして死んだ人達ってのは、そんなことを考えさせる死者達だ。彼らの死の意味を「運命」論で考えるなら、『ドニー・ダーコ』を観て僕が直感的に感じたように、「世界を救うために、周囲の愛する人々のために、犠牲になって先に死んだのだ」、なんて意味付けをしたくなる。唐突な死に思えるのは、彼らが「破滅に向かう世界」を「巻き戻した」から、その死の真の意味がわからなくなっているだけなのだ、と。僕らの現実の世界は、そうした夭折者達の、いや全ての善き死者達の、不断の自己犠牲の数々によって、かろうじて破滅を免れているのかもしれないのだ、と。だから『ドニー・ダーコ』は、そうした「僕らを救ってくれた」死者達への、切実なレクイエム(鎮魂歌)でもあるのである。

突拍子もない誇大妄想? いや確かにこういうのは「深読み過ぎ」な作品解釈なんだけど、映画『ドニー・ダーコ』の持つ「切ない哀しさ」には、この「読み」しか妥当しないって確信すら抱いてしまっている(笑)僕としては、どうにもまだまだ舌足らずながら、こう主張したいのだ――『ドニー・ダーコ』が「夭折者へのレクイエム」である、と。


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