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『最後の誘惑』すら含む、凡百の「タイムトラベルSF」が――前回書いたように――「人生をやり直したい」という人間中心主義的願望(エゴ)によって、感情移入できる範囲での「ご都合主義」で出来上がっていること。『ドニー・ダーコ』はなによりそれらに対する誠実な批判、「世界を終わらせ、死を覚悟してこそ可能なタイムトラベル物語」という「落し前」としてまずあるし、その物語の「主人公の資格」を持つ者は、「人生の半ばで死んでしまった人」でしか有り得ない。だからD・Dは「超人」や「救い主」の属性を与えられ、「ヒト以外のもの」との親和性が暗示され、「世界を破壊して再構築するもの」ともされて、ハロウィーンという「死者の祭り」の季節において、活躍することになるのだ。

1988年11月1日。全ての聖者が、現世に帰還するハロウマス=オール・セインツ・デイ(万聖節)の日。その29日ほど前に死んだ一人の聖者もまたミドルセックスの町に還ってきて、相変わらずシニカルに人々の営みを見つめながらも、姉の恋人のフランクや、自分と出会うことのなかったグレッチェンや、母や妹が元気でいることに、微かに微笑むのだろう。映画では描かれないけど、たぶんこの話はそういう後日譚を持つはずだ。短い人生だったけど、ま、いろいろあったなぁ…‥ってな死者の感慨を、彼に救われた人々は「忘れた夢のかけら」として知らず知らずながら感じはして、そっと想うのだ。ありがとう、またね、と。で、映画を観た僕は、僕の知る高校大学時代の死者達には電話できそうもないので(ちょっと怖いし)、代わりに古い友人に電話して、以上のような『ドニー・ダーコ』話を長々としたりして、ちょっと顰蹙を買ったりもしたのだった。



つーわけで私的『ドニー・ダーコ』論はこれで終わる。途中から舌足らずになっちゃってて、まだまだ語り尽くしてない気分もあるんだけど。例えばフランクが明らかにネイティブ・アメリカン系であることの意味とか、劇中歌の歌詞と映画の主題との関連とか(「どうもうまく伝えられない」と『狂気の世界』で歌われるように、この手の話は難しいのだ)、僕が「仮の理論」だとしたロバータ・スパロウの『タイムトラベルの哲学』に沿ったカタチでの意味づけとか…‥。いや、ぶっちゃければあの本は間違ってるってのが僕の見解で、「近隣の地域の者だけを過去へ運ぶ」なんて時間観で書かれている点では、他の「御都合主義」時間SFと同じ欠陥があると思う。ただし映画はその理論通りかどうか客観視されてないので(ドニーの主観では理論通りなのだが)、本当に起こったことは別の理屈だと考えることができるし、その方がいいと思う。ま、その上で「生ける受領者Living Receiver」=DD、「被操作対象生者Manipulated Living」=近隣住民、「被操作対象死者Manipulated Dead」=FとG、なんてのを無理矢理に配置する方法もあるけど、この名称からして「Living Dead=ゾンビ学」のパロディだしなぁ。操られる死者(何度かトラップを仕掛ける)と操られる生者(何故か暴力的になる)で「28日間の世界」が構成されていて(操ってるのが神だと言いたいらしい)、一人の「受け手」となる生者DDの周囲で動き回るってのがロバータ・スパロウ理論なんだけど、映画を見る限りでは破綻しているとしか思えない。この世界(This Universe)と隣接する世界(Tangent Universe)の関係や、確証罠/安全措置(Ensurance Traps)や時間穴(Time Portals)といった用語も含めた“死神オババ”理論に真面目につき合うと、貧しい話にしかならないのだ。ま、『マルコヴィッチの穴』のマルコヴィッチ憑依理論(笑)と同程度のヨタであって、本質的なシステムは隠されている、と考えるべきだろうと思う。っていかん。ムキになってたりして。

他にも、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と絡めて「アメリカという呪い」を描いたもの、アンチ・アメリカ(我々の内なる「アメリカ性」への懐疑・批判・抵抗)作品として読むって話とか、不可知論と無神論の話とか、時間論SFの問題の続き、例えば萩尾望都『銀の三角』の「時空人(神ならぬ時空生命体)」という発想との比較とかとか、あるいはこの物語自体が(1)サーマン先生によるカウンセリング記録の物語化、ないし(2)シェリータ・チェンが劇中で書いていた『ドニー・ダーコ』という小説の映画化である可能性について(大瀧啓介『エヴァンゲリオンの夢』参考)とか、はたまた「88/89年」という歴史の区切りに相当する年代についての考察(ウォーラスティン『反システム運動』あたりをひとまず参照?)とかとか、まだ色々考えることもできるんだけど、もはや長過ぎる(トホホ…‥)ので、続きは各自で考えてもらおう。おしまい。

あ、個人的に「DD」つながりで重要だと思ってる(笑)三原順の<ムーン・ライティング>シリーズは、白泉社文庫版なら『ムーン・ライティング』全1巻と『Sons』全4巻でひとまず揃うのでぜひ読んでみて欲しい。

Text:梶浦秀麿

知人から、クライスラー・ビルの屋根飾りのオブジェについて、「あれは鷹(falconine)ではなく鷲(eagle)ではないでしょうか。アメリカの象徴っつう意味も含めて」とのツッコミが入った。あわてて調べてみたけど……やっぱりどっちかはわからん。イーグルのような気も、強くしてきた。つーことはファルコンの住処であるピシュキン・ビルの方の飾りも鷲だったのかも? うーむ。調査続行かな…‥。ああそして「ファサード(facade)」を「ファザード」と書いちゃってたり、「そもそもファサードは“建築物の正面飾り”だから用法もおかしい、あの鷹か鷲の屋根飾りは“ガーゴイル”って言うんではないか?」とも指摘された。…‥すいません、そのようです。御指摘多謝。というわけで間違ってるとこは訂正。でも、鷹だか鷲だかの飾りの由来とかについては、未だに探索中なのであった。


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