『アイリス』:ジュディ・デンチ

今回のヒロインは実在した女性アイリス・マードック。「イギリスで最も素晴しい女性」と称賛された作家にして哲学なのだ。映画はアイリスが夫となる文芸評論家のジョン・ベイリーと出会った1950年代から、生涯を終える1990年代までの40年間を描いた伝記映画である。若き日のアイリスをケイト・ウィンスレット、現在をジュディ・デンチという、つまり一人の女性を若手とベテランのトップ女優二人が演じ分ける形をとっている。

「教育はあくまで幸せになるための手段です」。現在のアイリスが母校のオックスフォード大学のチャリティ・ディナーでこうスピーチするエピソードでスタートするこの映画は、アイリスその人の自由を愛する個性が主題だ。オックスフォード大学で講師を務める若き日のアイリスはまさに才色兼備の女性。知性とウィットに富んだ弁舌に加えて魅力的な容姿で、まさに周囲の注目と憧れを集めていた。もちろんジョン・ベイリーも周囲の人間の一人であって、初めてアイリスと言葉を交わした時から恋をしてしまったのだ。だがアイリスとは対照的に、控え目な性格で目立たない存在のジョン(若き日をヒュー・ボナヴィル、現在をジム・ブロードベントが演じ分けている)。恋はアイリスのリードで進展する。快活なアイリスは男性の友達もたくさんいて、親密さも様々。ジョンは困惑したり、嫉妬したりしながらも、紳士的であり続けた。その誠実さに愛情を感じたアイリスである。

映画はアルツハイマー病が徐々に進行するアイリスと、彼女に寄り添って暮らすジョンの現在に、若き日の二人の物語を織り交ぜる。こうすることによって愛の永続性を謳いつつ、変容する愛の柔軟性も同時に賛歌する。柔軟性をキープできてこそ、愛は永続に昇華する。かどうかはともかとして、現在と過去がまったく自然に愛のストーリーとして繋がっているのは、監督リチャード・エアの手腕によるところが大きい。エアはイギリス演劇界の重鎮なのだが、フレームの中がすべての映画と違い、演劇は幕が上ったら降りるまでの継続が表現手段。長年にわたって培ったこの表現手段を『アイリス』でも成功させたわけで、見事な品格のラブストーリーだ。


【ここがポイント】
ヒロインのアイリス・マードックは日本では残念ながら、あまり知られた存在ではない。本国イギリスをはじめ、英語圏では20世紀を代表する女性作家の一人とされるのだが、日本での知名度に限っていえば、女王陛下や故元皇太子妃、あるいは鉄の女の異名をとる元首相が圧倒的である。けれどこの映画で見る限り、アイリス・マードックは「格好いい女性」だ。なぜなら彼女は何よりも自由を宝物のように大切にしている。だから言動は、おのずと目立ってしまうのだが、たとえばプチ家出なるものをして親の監視の目を逃れ、仲間と群れを作って意気がっているような姑息な自由ではない。特に強調したいのは個性的な生き方などと口では言いつつ、その個性の実態は女性雑誌に掲載されているブランド品を、クレジットカードの、それも分割払いで買って身につけているような、自由でない個性ではないということだ。

アイリス・マードックはだから時に周囲をビックリさせてしまう。映画の冒頭のチャリティ・ディナーでは現在のアイリスがスピーチだけではなく、アイルランド民謡の「ラーク・イン・ザ・クリア・エア」を歌ってみらる。人はとかくエスタブリッシュされると、なるべお約束の範囲からはみ出す言動をしなくなるが、彼女の場合は益々お盛んといったところだ。この型破りのスピーチに出席者は案の定驚く。けれど親友は「やっぱり、彼女らしい」といった感じで微笑み、夫は誇らしげに耳を傾けている。

ここで大切なのは、スピーチにしろ歌にしろ、アイリスのそれは言葉だけが、あるいは歌を歌ったという行為だけのパフォーマンスではないということだ。長年にわたり自分の心の声を聴き、自由を大切にしながら生きている本物だけからにじむ誠実さがある。自由に裏打ちされた誠実さこそがアイリス・マードックのポイントで、言動が奔放であっても、複数の恋人がいながら後に夫となるジョンに惹かれても、決して言動だけが上滑りすることはないのだ。


【アイリス・マードック×ジュディ・デンチ】
ケイト・ウィンスレットと二人でアイリスを演じ分けているが、今回は現在を演じた名優ジュディ・デンチを取り上げることにする。1934年12月9日に、イギリスはヨークシャーで生まれ、40年以上も舞台に出演しているジュディ・デンチの演技については、今さら云々するにおよばない。映画での、特に『ゴールデン・アイ』(95年)以降の『007』シリーズのM役、あるいは『眺めのいい部屋』(86 年)の小説家エレノア・ラヴィッシュの存在感。そして『Queen Victoria 至上の恋』(97年)のヴィクトリア女王に、『恋におちたシェイクスピア』(98年)のエリザベス女王の、威厳と貫録に満ちた女王ぶり。もしくは『ショコラ』(01年)や『シッピング・ニュース』(02年)。どんな役を演じても、圧倒的な存在感である。

今回の『アイリス』でもこの点は同じだが、とりわけアルツハイマーと診断され、病状が徐々に進行しはじめて以後は、もう絶品である。ちなみに実際のアイリスの夫であるジョン・ベイリーはインタビューで、「ジュディ・デンチの外見はアイリスと似ていた」と言っている。このことを差し引いても、歩き方、仕草、口調、目線の泳がせ方から、爪の汚れや、洋服の襟元まで、デンチにはまるで本物のアイリスが取り憑いたのではないかと思いたくなる。これは想像にすぎないが、ジュディ・デンチは演技者として、肉体表現の究極を体験したのではないだろうか。

テキスト:きさらぎ尚(Movie Egg


『アイリス』
お正月シネスイッチ銀座ほかにて全国ロードショー
→公式サイト
監督・脚本:リチャード・エア/出演:ジュディ・デンチ、ジム・ブロードベント、ケイト・ウィンスレットほか/2001年/イギリス映画/1時間31分/配給:松竹/原題:IRIS


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