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○月○日
サリー・フィールドの映画初監督作品という点に興味をそそられて、『ビューティフル』(晩秋にシネスイッチ銀座他で公開)を見に行く。サリー・フィールドといえば、『ノーマ・レイ』(79)と『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)で、2度アカデミー賞を受賞している。そして『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)の、ガンプのお母さんでも御馴染み。俳優が監督をするケースは珍しくはない。特に最近だけでもダイアン・キートン(『電話で抱きしめて』)だって、シャーリー・マクレーン(『ぼくが天使になった日』)だってしている。なんだけれど、いや、それだからこそ「サリー・フィールドあなたまでも」、という気がしなくもない。ともあれ御手並みを拝見させていただきましょう。見た理由はこう思ったのがまず第一。実は第二がある。

それはヒロインを演じるミニー・ドライヴァーの姿を見たかったこと。というのもこのストーリーはミス・コンテストのお話で、ミニーのヒロインはすべてを犠牲にしてミスコンに賭けるのだと聞いている。個人的に言えば、ミニー・ドライヴァーの顔の形、目鼻立ちから配置にいたるまで、いわゆるミスコンに出場するタイプの形が良く、バランスの良いそれとはまるで縁遠いと思っているから。でも、この前はヘンな顔をしているサンドラ・ブロックが『デンジャラス・ビューティ』で、(捜査のためだったが)ミスコンに出場したものなぁ。ともあれミニーがミスコンのお話に主演するってことは、コンテストそのものによほどの意味を持たせたということなのか? たとえばこれまでのミスコンの常識を打ち破って、容姿よりもキャラクターや特技を競うとか。もしくは何か並々ならぬ個人的な事情のために出場するとか…。結果的には後者でした。

簡単に言えばヒロインのモナは自分の夢を優先するあまり、母であることを捨ててしまった女。だけどモナがそうなるにはわけがある。少女期から思春期にかけて、愛情の薄い家庭で育ったのだ。母はモナに無関心だし、義父からの性的虐待からも自分で身を守らなければならなかったといった具合。こんなだったから、お母さんに愛されたい。周囲からも認められたい。ミス・アメリカになれば、美の女王に輝けば、みんなに愛され、劣等感もなくなる。人生が魔法のように変えられる。こう思ったモナは夢はミスコンで優秀すること。そのためにはどんな犠牲もいとわない。軽い気持ちで付き合っていた男性との間に生まれた娘ヴァネッサを親友に育てさせ、つまり未婚の母という事実を隠して、夢に向って突き進む。

ストーリーをかいつまんで言えばこうなる。そしてモナが愚かな女に思えるかもしれない。娘を友達の子として育て、表面を取り繕ってミスコンに出場するのだから、確かに利口とは言い難い。けれど愛情薄く育った子供が大人になって、人をうまく愛せない。この点が同情をそそる。それにミスコンに優勝したいと、モナに一途に思わせる理由が痛ましい。なによりもミニー・ドライヴァーの容姿はミスコン向きでないのが、この映画の場合はモナの切実さを増幅させる。フェミニズム的に言えばミスコンそのものに様々な意見や問題はあるけれど、この件は別の機会にゆずるとして、とりあえず「求めよ。さらば与えられん」は、愛情も例外ではないということです。

ところで「熱い熱い」を連発し、ただただぐったりしていた夏でしたが、それももう終わり。終わりとなるとなんだが名残りおしいような……。秋から冬に季節が移る時は、やがて来る寒さに覚悟を決めて気持が凛としてくるし、冬から春になるときは歓びに満ちています。春から夏になるときは、命が燃えるような力強さがありますが、さて夏から秋にかけては、なんだか寂しいような感傷にとらわれます。秋が断章の季節だからでしょうか。「月刊映画日誌・銀幕鼠」も今回でおしまいです。次回からはリニューアルした形でお届けする予定です。読んでくださった皆さまありがとうございました。



俳優やクルーのことを詳しく知りたい方は、Miss Marpleの「Movie data base」をご覧ください。


Text:Nao Kisaragi
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