[メメント] Memento

2001年11月3日よりシネクイントほか全国ロードショー公開

監督・脚本:クリストファー・ノーラン/製作:スザンヌ・トッド、ジェニファー・トッド/原案:ジョナサン・ノーラン/出演:ガイ・ピアース、キャリー・アン・モス、ジョー・パントリアーノ、スティーブン・トボロウスキーほか(2000年/アメリカ/1時間53分/配給:アミューズ・ピクチャーズ )

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→ 『メメント』クリストファー・ノーラン監督来日記者会見

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ポラロイド写真を持つ手。何か汚い部屋の一角で、俯せになった男が写っているようだ。ここが終点だ。手でポラを振る度にその写真の画は徐々に薄れ、やがて真っ白になってしまう------そのポラのように喪われてゆく彼の記憶の断片が、我々の前に徐々に明かされてゆく。ポラを持つ男、レナード(ガイ・ピアース)の顔がアップになる。頬に傷が二つほどある。ポラを写真機に戻す------ここで冒頭からのシチュエーションが逆回転の映像だとわかる。写真を撮る前に放り投げた銃が手元に戻り、弾が銃口に戻り、撃たれた死体が起きあがって「よせ!」と叫ぶ!

ロサンゼルス某所の朝。レナードはモーテルで独り目覚めるが、何故自分がここにいるのかがわからない。机を調べ、メモを見て何をすべきかを判断する。身に付いた習慣や、自分がサンフランシスコ出身だとかいう古い記憶は覚えているが、さっき何をしていたかといった短期記憶を覚えておくことができないのだ。前向性健忘症という珍しい記憶障害らしい。ある事件で頭を殴られたせいなのか、その時の心理的なショックが原因なのかはわからない。とにかく、覚えておくべき、あるいはこれからやるべきと思ったことはポラロイドを撮ってメモっておく。だがメモも完全ではない。記憶すべき特に重要な事項は、身体に書き留めておくのが一番だと彼は考えている。その結果が、鏡に映った自分の裸------胸や腹から手首、太股にまで施された文字の刺青(タトゥー)だらけの身体だ。胸の上部に鏡文字で描かれているのは「JOHN G. RAPED AND MURDERED MY WIFE」。鏡を見る度に思い出す。そして胸に斜めに大書きされた「find him and kill him」------そう。レナードは10分前にあったことすら覚えていられないという酷いハンディを背負った、孤独な復讐者なのだ。犯人の手がかりとなるキイワードは、身体のアチコチに書き込んである。「事実1:男」だとか「事実6:ライセンスナンバー……」だとか……。

それとは別に、左手の甲には「サミー・ジャンキスを忘れるな」と彫ってあった。彼がまだこの病気になる前、保険調査員としての最初の仕事で出会ったサミー(スティーブン・トボロウスキー)は、前向性健忘になったと訴えていたのだ。レナードは相手が不当に保険金をせしめようとしているかどうか、話しながら目や素振りを見て見抜く自信があった。サミーは怪しかった。彼の糖尿病の妻は、決まった時間おきにインシュリン注射を打たねばならないのだが、彼はTVの筋も追えないというのに、その妻への注射だけは器用にこなすのだ。心理学者のテストにパスしなかったサミーに、結局保険金は下りなかった。納得がいかない彼の妻に、レナードは疑いの種をまいた……だが、それはまた別の話だ。電話でサミーの逸話を話しているうちに、その電話の相手すらわからなくなる自分への戒めとして、彼はサミーのことを何度も思い出す。だがそれは本当にあったことの記憶なのか? 考えると怖くなる。電話に出るのも怖い。モーテルの主人に自分の病気を説明していて、いやもう既にしたのかもと気づく時も怖い。妻の形見を燃やすのも、これで何度目かがわからない。でも、そうしたからといって、妻を忘れることだけはできない。この苦しみから、いったい、いつ解放されるのか……?

レナードの復讐には協力者らしき人物もいる。まずテディと名乗る男(ジョー・パントリアーノ)。警察関係者らしい。いや情報屋だったか? それからナタリー(キャリー・アン・モス)。自分と同じように恋人を亡くしたばかりらしく、憐れみで協力してくれている------のだろう、たぶん。だが彼らは本当は自分とどういう知り合いなのか? 何故、個人的な復讐なのに親身になってくれているように思えるのか? 過去の自分との関係は思い出せないままであり、手がかりはポラとそこに書き込まれたメモしかない。「メモだけの人生は無理だ」とテディは忠告する。「記憶の方がタチが悪い」と言い返してやる。記憶は思い込みだ、記録じゃない。過去の自分が必死に集めた分厚い捜査資料の方が、レナードには信頼できる。だが途中の数ページが抜けているのは何故だろう? 誰かが復讐を妨害している? レナードには絶えず10分間分の世界しかない。その外の世界から見れば------つまり全部を覚えていられる我々から見れば、彼の数々の疑問は解決できる? だが、はたしてその“謎”の解決と彼の復讐の成就とは、彼に本当に幸せをもたらすことになるのだろうか……?


これは「喪失」についての物語だ。喪われたものへの絶望的な愛、行き場のない切なく胸を襲う「想い」をめぐる寓話である。もちろん表面的には娯楽ノワール・ミステリの新種、みたいな顔をしている(あの『シックス・センス』が娯楽ホラーの顔をしていたように)。観客を「謎」に引き込んで引きずり回し、いくつものドンデン返しで驚かせながら、ある意味で残酷な結末をぶつけて、その衝撃で呆然とした観客の前からスルリと姿を消してしまう------そんな類の作品だ。一部の観客はそれを「後味の悪さ」と感じてしまうかもしれない。ある者は頭の中でリプレイして、主人公の哀しみの核へと辿り着き、その二重になった「想い」の強烈さを疑似体験することだろう。何かがひっかかった人なら、何度も観てしまうかもしれない。リピーター続出必至の「新しい映画」であることは間違いない。とにかく予備知識をなるべく仕入れずにまず観るべし! ←って言いつつ、続けてぶっ飛んだレヴューを書いたりしてるので、映画を楽しみたい人は読まないように!

モチーフになっているのは短期記憶が失われる“前向性健忘症”という病気だ。数年前にTVのドキュメンタリーで観た覚えがある。同じ病気を題材にした、毎日日記を書いているのに同じ日々を繰り返してしまうとかいう短篇漫画があったような気もする(少女漫画だったような……思い出せない。これも前向性健忘か? ただのド忘れか老人ボケの徴候か?)。もっと広く考えてみると、いわゆる「記憶喪失」を題材にしたフィクションは数多い。けれど、同趣向の中でこの映画が抜きん出ているのは、介助人がいない、という設定に尽きる。身近な周囲の人(家族とか)がいれば、ボケた彼に適切な助言をすることも、代わりに覚えておいてあげることもできる。だが映画の主人公レナードは孤独だ。協力者はいるが本当に彼らが信頼できるかっていうのは、観客にはわからない。そこがサスペンスを生む。本物の前向性健忘症に苦しむ患者が観ると、怒って差別だと訴えたくなるような箇所もあるかもしれないが(というかすぐ忘れるからいいのか←と、ブラックなボケ)、これは「寓話」だから事実と違っててもいいのだ。

ちょっとダークで抑え気味のファッショナブルな感覚もいい。レナードの身体を覆う偏執的なタトゥーのデザインは斬新だし、高級そうなスーツや、愛車らしき埃だらけのジャガーも格好いい。彼が気がつくと走っていて、何故走っているのかがわからないというシーンや、目覚めると知らない女が横に寝ているとか、何故かトイレで酒瓶を持って座ってるとか……身近であるがゆえに共感しやすい状況描写(酒乱の人には経験があるかもしれない)の積み重ねに、ちょっとコミカルで、しかもミステリアスな気分を加味した感じも巧い。大枠がメタ復讐劇なので、ノワール・フィクション(犯罪小説)めいた活劇もスリルも適度に散りばめられている。だが、この映画は「内容が形式を決定している」ってのを忘れてはいけない。ただのアイデア・ストーリーではないのだ。

構造を分析してみよう。リバース(逆回転)というか、約10分のシークエンス毎に過去に遡行してゆく主筋の時間と、そこにモノクロ映像で小出しに挟まれる「事実5……」のタトゥーを彫りつつ誰かに電話で「サミーのエピソード」を語っている(順行する)時間とが、クライマックスでぶつかる瞬間まで、観客には「真実」が隠されている。もちろんリバース・パートも幾つかの固まり毎に、細かいドンデン返しが用意されている(*正確には、22あるカラーのリバース・パートは一番最初だけリワインド=逆回転で、残りは約10分毎の順行で過去遡行する。同じく22あるモノクロの順行パートでは22番目に回想のカラー映像が混じり始めて、23番目=カラーモノクロ合わせて45番目のカラー・パートが蝶番の役割を果たすピースになっている)。観客はその度に絶えず驚かされ、「え?」とか「うひゃー」とか「マジ?」とか「オイオイ」とかツッコミを入れつつ、主人公の体験に巻き込まれてゆく。そして律儀な大オチ(「どひゃー」)に、ちょっと呆気にとられたり、いたたまれない気分になりつつ、それとは別の感情------彼の哀しみの本質をも共有するのだ。いや、愛する人を失う哀しみなんてのは、実は離婚率の高いキョウビの世相ではまあ日常的なこと、実は肝心なのは「失う」ということへの執着=喪失することそれ自体への強烈な想いなのだ。

「記憶」を意味する「メメントmemento」の第一義は「形見、思い出の品」であり、ラテン語の原義は「忘るることなかれto remenber」だ。「メメント・モリ(死を想え)」なんて成句にもなっている(写真家の藤原新也の83年の名著のタイトルでもある)けど、個人的なメメント=想いってのは、他者には理解不可能であるが故にかけがえのないものなのである。その他人にはわからない絶対的に孤独な感情、世界が自分の想い(記憶)だけを残して過ぎ去っていくことへの「私の」哀しみに、この映画は届こうとしているのだと僕は思う。つまり、この映画は「記憶とはいったいどういうものなのか?」を、深く問うてみせる寓話なのである。「世界の感触」を求めて、僕らは必死に記憶するのだ。

もちろん端的に、観客自身の記憶力・想像力が試されるというゲーム的な面白さもある。観終わった後の議論が楽しい映画と言えるだろう。2度目に観る時は自らの知力を振りぼって(1度目は予測不可能で革新的な展開を見せる映像表現に、ただただ巻き込まれてくれれば充分だ)、「この映画の中と外とで、本当は何が起こっているのか?」を是非見極めてみて欲しいと思う。僕もまだ1回しか観てないけれど、絶対もう一度は必ず観るだろう。これはそんな映画なのである。どう、観たくなったでしょ?

おっと。スタッフ&キャストの紹介を忘れてた。監督・脚本のクリストファー・ノーランは本作が長編2作目。この作品で2000年ヴェニス国際映画祭やトロント国際映画祭など各地の国際映画祭に出品、2000年ドーヴィル映画祭で批評家賞・審査員特別賞、2001年サンダンス映画祭では最優秀脚本賞、カタロニア国際映画祭でも批評家賞を、またロンドン批評家賞のALFS最優秀脚本賞を受賞している。つまり脚本の評価が非常に高く、なによりまず批評家ウケしているってことなんだろう。次回作であるノルウェー映画のリメイク『インソムニア』(アル・パチーノ、ヒラリー・スワンク主演、スティーブン・ソダーバーグ製作)で、メジャー大作映画監督の仲間入りを果たす予定だ。主人公レナードを演じているのは『プリシラ』『L.A.コンフィデンシャル』『ラビナス』のガイ・ピアース。彼に協力する謎の女ナタリーを演じているのは『マトリックス』『レッド・プラネット』『ショコラ』『マイアミ・ガイズ』のキャリー=アン・モス。同じく癖のある協力者テディ役は『バウンド』『マトリックス』のジョー・パントリアーノだ。『インサイダー』のスティーブン・トボロウスキーがサミー役を演じている。

追記:なお10月20日に、今野雄二による文庫ノベライズが発売(ソニーマガジンズ刊)。映画とは違うビックリ・オチまでつけてあって、ちょっと驚くかも。映画を観て2つの謎が残っていると感じた作家さんの“新解釈”なんだけど、その謎って、僕には「主人公が“忘れ野郎”として既に地元の有名人だった」という意味の描写くらいにしか感じられなかったんだけど……。映画っていろんな観方があるんだなぁって思ったりした。さらにクリストファー・ノーラン監督の幻のデビュー作『フォロウィング』も12月8日より渋谷シネ・アミューズにてレイト公開が決定した。こちらも追って紹介する予定。

Text : 梶浦秀麿


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