[赤ずきんの森] Promenons-nous dans les bois

11月3日よりシャンテ・シネほか全国順次公開

監督・脚色:リオネル・デルプランク/出演:ヴァンサン・ルクール、クレマン・シボニー、クロチルド・クロウ、アレクシア・ストレシ、モー・ビュケ、フランソワ・ベルレアン、ティボー・トリュッフェール、ドゥニ・ラヴァン、ミッシェル・ミュレール、マリー・トランティニャンほか(2000年/フランス/1時間30分/配給:ポニーキャニオン、東京テアトル)


「……オオカミは毛布をかぶり、赤頭巾を待ちました……今日はここまで」と母(マリー・トランティニャン)が言う。「プレゼントよ。誕生日は明日だからパパには内緒よ」と、渡されたのはアンティーク・ドールだ。「森を散歩しましょう、オオカミはいないから大丈夫……」------そう子守歌代わりに歌う母の声が、唐突に途切れる……。首に細い紐状のものが食い込んでいる。母の後ろにいるのは誰? オオカミ? ……そして歳月が流れる。

学生劇団の5人の若者が、森の中の古城に住む老人アクセル・ド・フェルセン(フランソワ・ベルレアン)に招待された。彼の孫ニコラ(ティボー・トリュッフェール)の10歳の誕生日に、余興の芝居をするために呼ばれたのだ。おりしも付近の森で20代の女性が連続して惨殺されるという事件が起こっていた。だが若者達は気にしない。退屈な日常から逃れられて、おまけにお子様劇で公演料をもらえるのなら、なんとも気楽なアルバイトだ。金髪の美男子ウィルフリッド(ヴァンサン・ルクール)はオーディションを受けたTV番組の結果が気になっている。クリクリの癖ッ毛マチュー(クレマン・シボニー)とソバージュのマチルド(モー・ビュケ)は恋人同士、ストレートな金髪のソフィー(クロチルド・クロウ)と黒い短髪のジャンヌ(アレクシア・ストレシ)も女性同士の恋仲だ。ジャンヌは耳は聞こえるが口が利けない。老いたメイドは孫娘の病気を見舞いに帰っていて、密猟監視人のステファン(ドゥニ・ラヴァン)が給仕をやらされている。「召使いじゃないのに」と不機嫌だ。あてがわれた部屋でジャンヌとソフィーはベッドで抱き合う。だが、それを覗き見る視線があった……シャッター音が微かに響く。

夜。アクセルとニコラ、たった二人の観客の前で『赤頭巾ちゃん』を上演し、ささやかな晩餐が催される。小さいニコラは耳が聞こえないらしい(とすると芝居は誰のため?)。車椅子のアクセルがウィルフレッドにあからさまな興味を示す。せっかくバースデイ・ケーキを用意したのに、ニコラは突然自分の左手をフォークで刺し、ステファンに退室させられる。アクセルがロウソクを吹き消す。と、ヘリの音が聞こえる。「警察のヘリだ。ラジオで言っていた犯人だよ……まあ捕まるまい」と老城主は言い、ウィルフレッドに寝室まで運んでもらって朗読を頼むのだった。

真夜中。眠るアクセルを何かが襲う。ソフィーは夢を見て目覚め、横にいないジャンヌを探して階下に降りる。少年がじっと見守っている。客間では眠れない若者達がトリップしながらダンスを踊っていた。と、唐突に男(ミッシェル・ミュレール)が現れる。刑事だというその男の警告を無視して、森へ散歩に出る若者達。どうやらジャンヌはバイセクシャルのようで、ウィルフレッドといちゃついている。悪戯に怒ったソフィーが帰り、途中で皆とはぐれたマチルドも部屋に戻る。そして……いよいよ舞台は整った。一人、また一人と若者達が殺されてゆく惨劇の幕開けである。犯人は誰か? 何のために殺すのか? 劇団員同士が疑心暗鬼に陥り、恐怖はいや増してゆく……。はたして誰が生き残るのか?


森の奥の古城「アクセルの城」で繰り広げられる、「赤頭巾」をモチーフにした連続猟奇殺人事件ってな体裁のホラー映画である。『13金(13日の金曜日)』シリーズのような懐かしの“思わせぶりホラー”なんだけど、なんと「おフランス製」ってのが珍しいかも。怖い雰囲気の出し方は凄く巧くて、残虐な殺され方も適度なヴァリエーションがあるし、男性ホラーファン向けなのか適度に裸やら絡みもある。『サルサ!』のヴァンサン・ルクール演じる美貌の青年ウィルフリッドも女性ファンには見逃せないだろう。ちなみに僕はエロディ・ブシェーズ(『キッドナッパー』『ラヴァーズ』『LOUISE(TAKE2)』など)もどきの短髪の娘、ジャンヌ役のアレクシア・ストレシ(『百一夜』)がツボだった(笑)。ここで残りの主なキャストを紹介しちゃおう。『ピストルと少年』『パトリス・ルコントの大喝采』のクロチルド・クロウは、全裸シーンもあるソフィー役を熱演。あとオトナ陣、アクセル役のフランソワ・ベルレアン(『さよなら子供たち』『ヴァンドーム広場』『ロマンスX』『シックス・パック』など)とステファン役のドゥニ・ラヴァン(『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』『ポンヌフの恋人』『ツバル』など)、最初の母親役でカメオ出演のマリー・トランティニャン(『主婦マリーがしたこと』『恋人たちのポートレート』『ポネット』『絹の叫び』など)らベテラン俳優達がしっかり脇を固めていたのもいい感じだった。

でも、オチについては個人的には買わない。伏線やディテールへのこだわりはよくて、いろいろ推理・想像させるのに、全部思わせぶりで、きちんとオチてないと僕には思えたのだ。まさに懐かしき『13金』シリーズに代表される黄金パターンを踏襲していて、何故彼らが選ばれ、殺意を抱かれるのかが、劇中では曖昧にしか描写されない、というか、ぶっちゃければ無意味に選ばれて無意味に殺されているとしか思えないワケ。トラウマが殺戮の動機らしき描写は一回だけ台詞で説明があるけど、「??」って感じ。あの最初の、子守歌歌ってて殺された母親の事件の犯人は誰なの? とかニコラの母親の詳細とか、何故“今”になって連続殺人が起きるのか(共通項は「誕生日」くらいしか思い浮かばないけどアレは前夜で今回は当日だしなあ……)などなど、まったくといっていいほど語られていない気がする。そのくせ、例えば真夜中に何かが湖に捨てられるシーンが思わせぶりにあったのに、後からよく考えると無意味だったりと、余計なミスリードを誘う仕掛けはいっぱいあるのだ。どうもクセものである。そういう雰囲気のみを愉しむホラーだと割り切ってみればいいのだろうけど、なぁ……。

つい登場人物の名を深読みしてみた。遊びである。まず学生劇団のメンバーそれぞれの名前。男2人に女3人の計5名。美貌の金髪青年ウィルフリッドはW。縮れた黒髪のマチューはM1、その彼女であるソバージュ頭、快活なヤンキー風のマチルドはM2。短い黒髪に白のタンクトップというジャンヌはJ。青い服を好む生真面目な美女ソフィーはS。JとSはレズビアンのカップルである。だがこのJ、耳は聞こえるが口は利けないという設定で、ちょっと神秘的な雰囲気があるのに、身持ちはかなり悪そう、というか奔放なバイセクシャルらしい。彼女が両義的な存在なのは、あの“ジャンヌ”・ダルクが魔女として火刑にされたのに後に「フランス救国の英雄」として聖女に祭り上げられたってのに相応しているのかもしれない。また「知恵」を意味するソフィーも「理性と狂気は紙一重」ってな案配で予断を許さない。あ、もちろんWはウルフ=狼のW、このウィルフレッドも、『赤頭巾』をモチーフにした映画のキャラの名前としては結構あやしい。古城の主アクセル=Aに、何やら色目を使われているも意味シンである。そういえば2人いるMは「逆さのW」でマンカインド=ただの人間を意味しているのかも。これに猟師ステファン=Stと子供N、刑事pを加えると、つまり[A→W→J←S←St:M1=M2:N:p]ってのが相関関係図。映画を観る前に、以上の区別が付くように覚えておくといいかもしれない。暗い画面が多いのでゴッチャになると誰がいつ死んだかわからなくなるゾ。

あ、そういえば招待主の名前も意味ありげだ。本作が長編第一作となる弱冠28歳のリオネル・デルプランク監督は「アクセルと言えば、フランス人ならマリー・アントワネットの愛人を思い出してくれるよね」とうそぶくが、フランス人ではない僕は、アメリカの文芸批評家エドマンド・ウィルソンが1931年に発表した『アクセルの城』(邦訳ちくま文庫)を真っ先に想起した。主にフランスの象徴主義文学を論じた文芸評論なんだけど、タイトルは『未来のイヴ』のフランス人作家、ヴィリエ・ド・リラダンの遺作『アクセル』(1890)から採られている。古城に閉じこもって自我の内面をひたすら見つめ、社会的現実から目を背け続けるアクセル。彼は死の中でこそ至純の愛は完成されるという甘美な幻想を生き、宿を請うたヒロインと恋に落ちて「さあ、この愛が最高潮の今こそ、心中しよう」とか宣ってヒロインを説得し、二人で自殺するのだ。うひゃー。……翻って劇中のアクセル氏に目を転じると……ね? こっちの方で映画を解釈した方が、皆殺し系のホラーは納得がいくかも。でもさ……いや、まあこの後は観終わった後で考えてもらおう。ちなみに彼が招待した学生達へのウェルカム・ドリンクは、ブラッディ・メリー(血塗れマリー・アントワネット?)ではなくクレイジー・メリー(狂ったマリー)だった。それを嫌々給仕する密猟監視人ステファンは、孫娘の病気で休暇を取ったメイドの代役というのが気に入らない様子。そしてアクセルの孫ニコラは耳が聞こえない……。この2人の名にも、何か深読みできる要素があるのかもしれないけど、それは各自で考えてね。あ、メイドの孫娘ってのも気になるなあ……。

思わせぶりな暗示は、まだまだ細部に及ぶ。最初と最後で惨劇を見つめる黒ツグミ(ブラック・バード)、レズにゲイにバイ・セクシャル、覗きに盗撮、剥製作りと内蔵料理と狼の腹を裂く童話、ドラッグにトランス系ミュージック(アッパー/ダウナー)、2種の聾唖、心の病=トラウマ、自傷行為、多重人格、連続猟奇殺人鬼、魔王とその娘に奪われる息子の魂、そして改変された『赤頭巾』童話etc.----とにかく謎めいたディテールの数々が、みんな何かを「象徴」するかのようにアチコチに仕掛けられているのだ。僕はその謎解きを途中で放棄しちゃったけど、納得のいく説明ができたら教えてね←オイオイ。

メイン・モチーフの童話についてはもう一言。聾唖の少年とその祖父のためだけに演じられる寸劇『赤頭巾』は、しかし身障者対応すらしてないチャチな芝居で、妙にフレンチ・ポルノ感覚なコスプレをした赤頭巾が2人も登場し(冒頭のニュースにある森での犠牲者と同数!)、助け出された2人の代わりに腹に石を詰められた狼は、井戸に落ちて死ぬこともなく、ただ森へと去ってゆく(ちなみに赤頭巾役はマチルドとジャンヌ、狼役はマチュー、ソフィーとウィルフレッドが猟師を演じていた)。「そして狼は、赤ずきんを食べてしまった」で終わるシャルル・ペローの『赤頭巾』があり、猟師に狼が退治されるグリム兄弟版があり、その後に残酷描写を検閲して無菌化した現代の翻案絵本の数々があるのだけれど、狼を殺さない劇中の寸劇もその最後のヴァリエーションのひとつだ。例えば庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中公文庫)で、小さな女の子のために童話を選んであげる主人公が、いかにも推奨しそうな「誰も死なない結末」になっているのが、映画本体と比べると皮肉な感じだ。この改変された童話劇は、いったい誰のために演じられたのか? さまざまな童話解釈でよくあるのは、ペローの場合は「寄り道して森で遊んだ」悪い少女を責め罰を与える家父長制のモラルを教訓話に仕立てたとされ、その後のヴァリエーションでも食べる行為は生殖のメタファーとされる。変わったところでは、「狼の腹を裂く猟師は、母(赤頭巾にとっては祖母)の腹を裂く子(赤頭巾の父親)であり、つまり狼のように娘を犯し、さらに母の胎内に回帰したいという男性の隠れた欲望を置き換えたもの」なんてのがある(腹に石を詰められた狼というのは、古代からある「男が妊娠する奇病」伝説の残響もあるとか)。現在は「男女同権」のフェミニズム・コードに引っかかるためか、あまり子供に読ませないみたいだし、逆にエロティックな想像力の源泉になってたりもする。改変され続けるメルヒェンの連続体。そこからまたひとつ生まれた新たなホラーとして、さて、どう楽しむか?

オマケ。京極夏彦の3年ぶりの書き下ろし長編SFミステリ『ルー=ガルー』(徳間書店)を読んだ。ルー=ガルー(Loup-grou)とは「夜間、狼に化けてさまよい悪事を働く伝説上の怪物」のことで、『赤頭巾』伝承などにも影響を与えた、中世ヨーロッパ人の恐怖の対象のひとつである。この小説自体は「近未来の日本で14歳の少女達が連続猟奇殺人事件に巻き込まれる」という娯楽ミステリ(&アクション)小説なのだが、読み終わってちょっと考え込んでしまった。昨今の世相を反映してか、「殺人」を扱うジャンルであるミステリの世界も、現実の殺人事件の抑止力たるべく、いろいろ苦慮しなくちゃいけないらしいのだ。この小説はそこで頑張っている分、ちと歯切れの悪い感じもある。でも「人を殺しちゃいけない」というモラルの根拠自体が、法以外に主張し得なくなった時代に、安易に人が死ぬミステリやホラーはもはや淘汰されるべきなのかもしれない。しかし一方ではバイオレンス描写の先鋭化が進み、大量殺戮のリアリティがひたすら追求されてもいる。もちろん観客の欲望こそがそれらを召喚するのだが、そこに一抹の罪悪感が生じた時、自分の中にいる「悪い狼」を、そっと自覚するべきなのだろう。京極夏彦は別の場所でこう語っていた----「人の中の獣----ルー=ガルーは、理性では制御できない、人間が抱えた自然そのものなのです」と。ヒトという獣の業の深さを探究し続ける、当代随一のミステリ作家ならではの至言である。というワケで、そういうのも踏まえて『赤ずきんの森』を愉しんでみるってのもいいかもしれない。この「森」はヒトの中の暗い森、でもあるのだ。

●オマケ没ネタ:新世紀ホラー界のJLG? くだらない映画オタク漫才(笑)
[*映画館を出て]
俺「うーむむむ……」
僕「どしたの? この『赤ずきんの森』にそんなに考え込むことある? 森の奥の古城に呼び出された若者達、そこで起こる連続殺人。ちょっと可愛い3人の女優陣……」
俺「あのエロディ・ブシェーズ(『キッドナッパー』『ラヴァーズ』『LOUISE(TAKE2)』など)もどきの短髪の娘、ジャンヌ役のアレクシア・ストレシが、俺的にツボだったんだよな……。いやそれはともかく、うーむむむ……」
僕「僕は全裸シーンもあるソフィー役のクロチルド・クロウかな。あと『サルサ!』で主役張ってた美形俳優、ヴァンサン・ルクールも女性受けしそうだし。あの不気味な子供もいいし。んで、皆が疑心暗鬼に陥って、犯人は誰か、誰が助かるのか……って話でしょ。童話『赤頭巾ちゃん』の現代版ホラー風味のミステリ映画、これがヨーロピアン・ホラー!ってワケじゃん。何に唸ることがあるんだよ?」
俺「いや、オチがわからん」
僕「オチって……あんた、漫才じゃないんだから……」
俺「つまり、アレだろ、『悪いオオカミは君らが好きなんだ』ってことは……要するに××(真犯人)の台詞は、現代の自堕落な若者はみーんなオオカミに喰われちゃえってメッセージだろ? でもそういう連中がいるから、森の中の悪いオオカミにも存在価値があるって話でもある。殺されるのは悪いヤツラで、それゆえに身体の中に潜り込まれたり惨殺されたりするんであって……。まあ表向きは、幼少時のトラウマが原因で多重人格になって、みたいな最近流行の話でもある。んだけど、それにしては書き込みが足らんような気が……」
僕「また君も理屈で映画観るやっちゃな。この映画はあれだよ、雰囲気を愉しむんだよ」
俺「んん?」
僕「つまり思わせぶりな設定、ミスリードを誘う細かいネタの数々、それでいて曖昧なままの全体像がまずあるだろ? にもかかわらず構図が妙にシンメトリーだったり、服や鞄の色とか色彩設計に凝ってたり映像テクニックが駆使されてる。後半対称が崩れてからの、闇に浮かび上がる演劇的な人物配置とか、高低差つけたり後ろの闇に潜む人物とかがいたり……。だいたい“森と古城の美しくも不気味な映像美”ってのが様式美だよな……。舞台設定自体が、80年代B級ホラー、『13金』なんかへのオマージュみたく、その形式や様式を徹底して再現してるだろ? つまりアトモスフェア(雰囲気)としての恐怖映画のアーカイブ(蓄積されたネタ倉庫)を、縦横に参照して、さらっと表層的に利用したような、スタイル重視のポストモダン・ホラーなんだよ」
俺「君の言ってることが既に理解できんわ。でも伏線の暗示なのかもよくわからん細かいネタは、確かにアチコチにいっぱいあったな。あの黒い鳥とか。登場人物はレズビアンにゲイにバイ・セクシャルにストレートと性的嗜好が一通り揃ってたし。覗き部屋とか盗撮とか変態行為も押さえてたよな。自傷行為ってのも入るのか? 剥製作りと内蔵料理と狼の腹を裂く童話がイメージ的に二重(三重?)写しになってるのは何となくわかる。ドラッグにトランス系ミュージック(アッパー/ダウナー両方)ってのは、まあ今ドキの若者描写の定石だろ。あの耳が聞こえないコと口が利けないコって設定は、物語上の象徴的配置として関係あったりするのか? メイドの婆さんの孫娘の病気ってのも何なのか気になったしな……。そういや殺され方も、絞殺死に溺死、鮫撃ち銃に拳銃にナイフと焼死、あと劇薬かけられてとか猟師の罠にかかって……ってのもあったな。ヴァリエーション豊かだよな、観てる時はそんなに思わんかったけど……。あの寝物語に読む“嵐の夜に魔王とその娘に息子の魂を奪われる話”って、有名だよな。何だっけ? ううド忘れした。あれと『赤頭巾』は関係あるの?」
僕「知るかい。それよりもっと本質的なことなんだけど、何故“今”になって連続殺人が起こるのか?とか、過去の因縁の具体的描写を一切省いているのは何故か?とか気にならなかった?」
俺「そういや何で急に“今”になって唐突に……。ああ! それより、そもそも一番最初の事件の犯人っていったい……?」
僕「でしょ。リオネル・デルプランク監督が描きたかったのは、そういう因果話とかメッセージ(教訓)とかじゃないんだよ」
俺「ええ? じゃあ何なの」
僕「怖さだよ。でも即物的な怖さじゃなくって、ホラー映画史を通過した記号としての『怖さ』だね。それ以外はみんな、設定もキャラも何もかもが、懐かしいB級ホラーの醸し出していた記号的な『怖さ』を追求するための道具なんだよね。あのさ、ジャン=リュック・ゴダールって好き? 『気狂いピエロ』とか『勝手にしやがれ』とかの監督」
俺「大嫌い。あのチョー退屈な『映画史』観た? ひたすら世界の映画をコラージュしまくって、その挙げ句に映画はすでに死んでいる、俺が殺した------みたいな物言いはどうよ。“私語り”を正当化するなんての、許せる?」
僕「まあまあ落ち着いて……。っていうか、彼は映画の文法を破壊したから偉いって言われてんだよね」
俺「映画の文法?」
僕「映画の構造みたいなもの。彼を代表とするヌーヴェルヴァーグの作家達ってのは、皆もともと映画批評家出身だから、映画の映画、みたいなメタ・レヴェルの映画を作っちゃっうヤツが多いんだよね。で、実はそういうのは、あらゆるジャンル映画で絶えず繰り返されていて、ホラーだったら60-70年代の正統派がひとまずあったとして、80年代にはショッカー・タイプの驚かし技がさらに先鋭化して、スプラッタとかB級シリーズ展開ホラーとかになって(コミカル・ホラーとも言う)、90年代だともう壊れちゃってる『ツイン・ピークス』みたいに、サスペンス・ミステリと思わせて途中経過の面白さでずうっと引っ張って、でも超常ホラー・オチとかいう反則ワザも平気で出てきたり、あるいは劇中登場人物が『もしホラー映画なら次は……』って推理しちゃうメタ・ホラーなんかも出てきてしまった。B級ホラーの帝王だったサム・ライミなんか、ついに怖がらせておいて何もないみたいな“はぐらかしシークエンス”を連発する、過去の業績を逆手にとったような思わせぶりホラー『ギフト』なんかを撮っちゃうしさ。僕は異色ホラー『シックスセンス』のように、ホントに怖いけど感動もできる、ぎりぎりなんとか娯楽ホラーに踏みとどまってるヤツが好きなんだけどね。ま、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』なんて怪作もあるし。これもホラー映画(+ドキュメンタリー映画)の文法をコンビニエンスに利用したウマいテクなんだけど、一発勝負だよね。あ、そういや『ノイズ』も『赤ずきんの森』みたいにグリム童話の「小人のルンペルシュテルツヘン」が隠しモチーフになってたね。あれはサイコ・スリラーなのかSFなのか曖昧にすることで謎をひっぱって、さらにシャーリーズ・セロンが『ディアボロス』と同じ都会ノイローゼで妊娠ノイローゼって役柄という既視感をも逆手に取った、なんともヘンテコなホラーだったけど。……ま、この30年くらいのホラー映画ってジャンルだけでも、映画文法的なイノヴェーションがかなりあったワケだ。大雑把で舌っ足らずの説明だけど」
俺「ん? 誰に言い訳してる?」
僕「いいから。となると、この『赤ずきんの森』もホラー映画のJ=L・ゴダール的位置付けができるのかもしれない」
俺「中身スカスカでも?」
僕「『ホラー』という記号的な『恐怖の文法』自体へのこだわりだからね。様式美みたいなものだよ。“若者の怒り”みたいなのがかろうじて有効だったゴダールの頃と違って、もはや現代人の中身自体がスカスカだからね。それこそ悪いオオカミが中に入れるくらいに……」
俺「なるほど、オチにもっていこうとしてるな。そうはさせるか。要するに今の若者の退屈な空虚さ自体も描いているって言いたいんだな」
僕「でも難しい話はさて置いて、表層的にはちゃんとしたウェルメイドな娯楽ホラーになってるとは思うよ。いろいろ深読みできる仕掛けもあるしね。劇中で語られない部分を推理する愉しみとか、寓意的な象徴表現を読みとるとかって遊べるはずなんだけどなあ……」
俺「あ、そういえばジャンヌ役のアレクシア・ストレシって絶対ゴダール好みだよな」
僕「そういう話じゃあないってばさ……」チャンチャン。


Text : 梶浦秀麿


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