[耳に残るは君の歌声] The Man Who Cried
2001年12月15日よりBunkamuraル・シネマ、シャンテシネ他にて公開

監督・脚本・音楽プロデュース:サリー・ポッター/出演:クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップ、ケイト・ブランシェット、ジョン・タトゥーロ他(2000年/イギリス・フランス/1時間37分/配給:アスミック・エース)


嵐の夜の大海で溺れかけている女がいる。燃える船の破片に囲まれ、過去を走馬燈のように思い出す……。幼き日、雄壮に歌う男の姿……あれは父(オレグ・ヤンコフスキー)だ。歓声を上げる人々の後ろにいる小さな私。「フィゲレ」と私を呼ぶ父の声、ロシアの貧しいユダヤ人村の暮らし。1927年。老いた祖母と幼い私を残してアメリカへ出稼ぎにいく父を見送った日の想い出。……やがて戦火が村に迫り、数人の村人と馬車で脱出する。略奪にあい、馬も死に、わずかに残った仲間とも港で引き離されて、船に乗せられるフィゲレ(クローディア・ランダー=デューク)。キリスト教の慈善活動の一環なのだろう。ついた港で、たった一枚の金貨を牧師に見せて「アメリカ?」と尋ねるフィゲレに、牧師は「違うよ、ここはイギリスだ」と答えて金貨を戻す。スーザン(スージー)と名付けられ、ロンドンの養父母のもとで育つフィゲレ。学校ではジプシーといじめられるが、独りで口ずさむ歌声を耳にしたウェールズ人の教師によって歌の才能を見出される。成長した彼女(クリスティーナ・リッチ)はコーラスガールの職を得てフランスへ。諦め顔の養父母は、彼女が来た時に持っていた父親の写真と一枚の金貨を渡す。1939年のことだ。パリのミュージックホールで知り合ったロシア人のブロンド娘ローラ(ケイト・ブランシェット)と暮らし、オペラ座のエキストラに出演するようにもなる。父の歌声に似たイタリアのオペラ歌手ダンテ(ジョン・タトゥーロ)は、座長フェリックス・パールマン(ハリー・ディーン・スタントン)が馬を舞台に載せるのをひどく嫌がる。馬を世話するジプシーの青年チェーザー(ジョニー・デップ)が気に入らないのだ。だがスージーは惹かれてゆく。ローラはダンテを誘惑し、公私ともに充実した日々を送る。だが時代は不穏さを増していた。ダンテが敬愛するムッソリーニのファシストが幅を利かせ、第二次世界大戦の端緒となるポーランド侵攻を遂げたヒトラーのナチス・ドイツがパリを狙う。ジプシーやユダヤ人は迫害され、2組のカップルにも別れの時がやってきた。運良くNYへ向かう船に乗り込めたローラとスージーだったが、夜闇に紛れて不吉な爆音が近づいてくる……。

格調高き映像と全編にあふれる声楽の数々、そして語られる悲劇的な彷徨……。クレズマー(ユダヤ系伝統音楽)にジプシーミュージックにオペラ。それぞれ民族の文化を背負った音楽そのものに、20世紀前半(1920〜40年)の歴史を語らせようとしたエピック・ロマンである。ジワリと泣ける名品だ。東欧系ユダヤ少女フィゲレ=スージーの波乱に富んだ半生、その遍歴は、ヨーロッパの民族差別の歴史を知らない人には、ひとまず「父を訪ねて三千里」だって説明した方が早いかもしれない。出稼ぎに出て帰ってこない父親を追う娘、というか帰る村自体をコミュニズム下ロシアの混乱で失い、お互いに消息不明って状態で、まず難民としてイギリスへ、そしてアメリカへの旅費を稼ぐためにパリへ向かうフィゲレ。そこで恋をし、また今度はファシズムやナチズムの迫害を受けて、またしても難民のようにアメリカへ向かうが……。はたして彼女は父と再会できるのか?ってのが物語を駆動する。

幼少時のフィゲレを演じたクローディア・ランダー=デュークの健気で一途な演技がもう絶品で、個人的なお目当てのクリスティーナ・リッチ(『バッファロー'66』『スリーピー・ホロウ』『ブレス・ザ・チャイルド』など)に変わった時は「もっと彼女(クローディア)を見せろぉ」と後ろ髪引かれる想いまでした。なんか『蝶の舌』みたく少女時代だけでも一本の映画になるかもと思わせる迫力。もちろんリッチも負けてなくて、ひたむきさを内に秘めた表情は独特の引力を発揮。さらにちょいハスッパな姉御肌なロシア娘を、あのケイト・ブランシェット(『エリザベス』『ギフト』など)が熱演、このヒトの名脇役ぶりにも驚く。そして『愛のエチュード』『オー・ブラザー!』のジョン・タトゥーロ演じるイヤミなオペラ歌手も、『ショコラ』『ブロウ』『夜になるまえに』のジョニー・デップ(あ、『スリーピー・ホロウ』でもリッチと共演してたっけ)演じる無愛想なジプシー男も、なんか贅沢すぎるキャストって感じだ。出自を隠してた座長を演じたハリー・ディーン・スタントン(『エイリアン』『パリ、テキサス』『シビル・アクション』『グリーン・マイル』など)も、渋い父親役のオレグ・ヤンコフスキー(『鏡』『ノスタルジア』『おろしや国酔夢譚』など)など、脇も贅沢な配役で固めている。音楽も役者も、そして独特の映像美も……なんて欲張りな映画なのである。監督・脚本は『オルランド』『タンゴ・レッスン』のサリー・ポッター。なるほどね。

個人的には、パリでの青春時代描写がたっぷりあったので、ラスト・シーンの呆気なさを勿体なく思ったりもしたけど(思わず角川書店から出てるノベライズの結末だけ立ち読みしてしまった)、結果的に個人の問題というよりユダヤ人(そしてロマ族=ジプシー、あとウェールズ人もか)迫害の歴史をズウンと腹に響かせる作品に仕上がってるので、映像作家の目論見としては成功してるのかな。しかし第二次大戦時、日本はイタリア・ドイツと同盟を組んでいたわけで、彼らの民族差別・迫害に(間接的に)加担していたことになる(東欧リトアニアの杉原千畝などの例外的美談もあるけどさ)。映画のファシストやナチを敵視して、主人公を「可哀想」で済ませるだけじゃダメなのかもしれん。劇中でもアメリカ移民局でさえ東欧からのユダヤ人移民を制限している描写もあるし、現代アメリカを描いた『ゴーストワールド』でもイーニドが「ユダヤ系」って出自を揶揄されていたりするのだから問題は根深い。邦画でも『GO』という民族差別問題への新たな提起がなされた21世紀、イスラエル絡みでまだまだ何波乱かありそうな中東問題も含めて、このひどく難しい「問い」は、今世紀中に解決できるのだろうか? と、考え始めてしまう今日この頃。そんな意味で、他人事じゃないゾってな問題意識を持つキッカケにもなる映画と言えるかも(逆にユダヤ特別視に安易に行く危険も孕んでいるが)。ひとまず「音楽」----というのが、この映画の示す一つのヒントでもあるのだけど、果たして?

Text : 梶浦秀麿


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