[ハッシュ]
2002年新春第2弾、シネクイント、梅田ガーデンシネマ他にてロードショー

監督・原作・脚本:橋口亮輔/出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子(2001年/日本/135分/製作・配給:シグロ)

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30代ゲイ2人と30代女のストーリー。 ペットショップで働く直也(高橋和也)は、気ままなゲイライフを送りながらも人生に何か物足りなさを感じている。 土木研究所で働く勝裕(田辺誠一)は、優柔不断でゲイであることを隠して生活をしている。 歯科技工士の朝子(片岡礼子)は、好きでもない男とセックスをして人との関わりをアキラメたような生活を送っている。そんな見ず知らずの男と男と女が偶然、出会うのだった。ある日、付き合い始めることになった直也と勝裕。しかし、偶然出会った朝子の出現で、彼らの平穏にいくかに見えた関係が揺れ動きはじめる。 朝子は勝裕がゲイだと知ったうえで「結婚とか、付き合うとかではなく、子供がほしいの」と相談を持ちかけたのだ。その朝子の決意は、直也と勝裕、そして個々の家族の心に大きな波紋を起こしていく。「家族」の可能性を模索しながらも、人生の選択を迫られるのだが…。

色気も洒落っけも、そして何もかも投げやりの朝子。「結婚とか、付き合うとかではなく、子供がほしいの」と突拍子もない相談を持ちかける彼女。そんな彼女に「どうしようかな」とあたふたとする勝裕と「何、言っちゃてんの」と怒る直也だが、そんな2人の好対照な態度が、なかなか面白い。田辺誠一ファンとしては優柔不断で頼りなげで女々しい勝裕は、セクシーさに欠け少々がっかりであった。しかもヘアスタイルが、ショート。うっとうしいくらい顔にかかる髪の毛はどこにいったの、みたいな。普通ではありえないようなストーリーではあるが、現実にあってもおかしくないと思ってしまうから不思議である。いや、現実にもあるのかな。コミカルに描きつつも、最後にはジワっと心に訴えてくるものがある。朝子の台詞に「いろんなことあきらめてたんだけど、誰かとご飯食べたり、笑ったり、手をつないだり、なんかきれいだなとか、いいなとか、そういうこと、どんどん思えてきて…」とあるが、この言葉がしみじみと心に染み、いい映画であったなと、是非オススメしたい作品である。

Text: imafuku [UNZIP]

『二十歳の微熱』『渚のシンドバッド』の橋口亮輔監督の最新作。イジワルな言い方をすれば「キチガイ女とゲイ2人による“子供がいる幸せな家族”願望の解決法模索ムーヴィー」だな。少しだけヘンテコな映画のリズムや会話のテンポが面白いんだけど、ゲイ肯定っていう絶対視点から見ているようで、ゲイ以外の人々のエグイ描写(うるさいゲイもバカにしてるけど)はちょっとイタイかも。ある種「理詰めの恋愛論(ないし家族論)映画」、なのでゲイだったりキチガイだったりするのは過去に「親との関係」に失敗してうまく普通の大人になれなかった(アダチル・トラウマ)からだと、朝子と勝裕の設定としてチラリとしっかり描写されてたりするわけだ。だから監督の主張に沿ったそういう物語構造を、深読みし過ぎてみるのもちょっと面白いかもしれないと思った。例えば、直也の勤めるペットショップではブリーディングに熱心な子連れママさんの挿話が象徴する「子作り」(ゲイに不可能な本来の生殖行為/優良種繁殖熱=教育ママへの皮肉も)とそれへの嫌悪というのを読み取ってみたり、精神科通いの朝子が「ヤリダコができてる」とか「2度も堕胎している」とかいう設定なのは「無為な性行為」主体(生殖可能でありながらそれを拒む環境を準備してしまう、なのに性行為自体は拒めないビョーキのヒト)をゲイと対になる立場として体現させられていると解釈してみたり……。彼女が歯科技工士なのは「未だ口唇期である」ことのメタファーかもしないし(口でするセックスもあるわけだし)、あるいは死んでも残る歯型が身元証明に使われるという「自らの遺す子供」的な意味もあるかもなんて深読みしすぎてみたり……。んで一応の主役、土木研究所で船のモデルをプールに浮かべたりしてる勝裕は、その模型船のユラユラ感で優しさor優柔不断さを表されてたりするようなんだけど、片思いの先輩男性上司(ノーマルというかヘテロ)への未練がチラリと描かれたり(直也への裏切り? ゲイが浮気性だという表象?)、ストーカーめいた女子事務員の永田によって窮地に追い込まれたり(軽い障害を持つことをアイデンティティの核にしているこのカンチガイ女を、『ねじ式』『月光の囁き』『贅沢な骨』のつぐみが怪演!)、ゲイであることを薄々知っていた兄との心の交流をシンミリ味わったりする。でもって兄嫁の方は徹底した悪役、朝子のネガ=「京都の旧態依然とした家父長制価値観を持ち、魅力のない夫に我慢して耐えて娘を育てる女の鏡(?)」として造形されていたりするのだった(迫真の演技を見せた兄嫁役の秋野暢子も、凄くリアルに怨念を表出してていい)。さて。その兄嫁を激怒させることになる朝子の「自分の家族は自分で選びたかった」発言こそがこの映画のキモだと思うんだけど、映画はひとまずその発想自体を肯定して、なんとなくハッピーな感じで終わる。つまり劇中で提示される「新しい家族像」を、少なくとも「ゲイが巻き込まれ型で家族集団を作る可能性」として希望的に語るのだ。ここにはファンタジーがあるんだけど、はたしてこの結末が正しいかは微妙な気がして、個人的には納得できなかったのだ。なにより片岡礼子(『二十才の微熱』など)演じる朝子がどうしても「汚く」「愚か」に見てしまって、(さんざん人工授精関連の本を読んでいながらあの手法ではまず有り得ないが)生まれた子供をちゃんと育てられるようにはとても思えなくて、ゾッとする感覚があったのだ。ま、「抱腹絶倒のヒューマンコメディ」という賞賛もあれば、「被害者意識のゲイ監督による徹底した女性蔑視映画。フェミ集団はなぜ怒らん?」(TVブロス8号の持永昌也の短評)って酷評まであるので、いろんな観方があると思うんだけどね。

Text:梶浦秀麿

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