[ぼくの神さま] EDGES OF THE LORD
2001年3月2日より日比谷スカラ座2、新宿文化シネマ4ほか全国東宝洋画系にて公開

監督:ユレク・ボガエヴィッチ/出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、ウィレム・デフォー、リアム・ヘス、リチャード・バーネル、オラフ・ルバスゼンコ他(2001年/アメリカ/1時間38分/配給:ギャガ・コミュニケーションズ、アートポート)

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夜に何かを載せた列車が走る。1942年、ナチス占領下のポーランド。クラクフの街で、大学教授夫妻が11歳の息子ロメック(ハーレイ・ジョエル・オスメント)にキリスト教の祈り方を暗唱させている。ユダヤ系の彼らは、ひとまず息子を田舎に逃がそうとしていたのだ。ジャガイモ袋に詰め込まれ、父の友人の農夫グニチオ(オラフ・ルバスゼンコ)の馬車の荷台に積まれたロメックは、夜の街路で、ユダヤ人というだけでナチスの将校にあっさり銃殺される光景を見て呆然とする……。なんとか無事に東部の鄙びた村に辿り着く。親戚だと偽って彼を匿うグニチオには、美しい妻エラと二人の息子がいた。12歳のヴラデック(リチャード・バーネル)とその弟のトロ(リアム・ヘス)だ。ヴラデックは最初は喧嘩腰だったが、子供の常で、徐々に打ち解け合うことになる。トロは少し変な子だ。両親が睦み合う声を盗み聴いては「ママが怖い夢見てる」と真剣に心配したり、兄や仲間の言うことをすぐ真面目にとってしまう。「トロはトロいんだ」とヴラデックは言う。生まれて初めての村の教会に行った時は怖かったが、神父(ウィレム・デフォー)はロメックがユダヤ人であることを既に知っていて、彼がカトリックに偽装することを許していた。カトリックにしては寛容な神父は、日曜日の説教で「人はみな雑種だ」と語り、子供達にも「イエスもユダヤ人だ」と教えるのだった。ナチスの兵は村にも駐屯していた。ユダヤ人は言うまでもないが、豚をこっそり飼う者も、見つかればその場でナチに処刑される。だが貧しい村人は隠れて豚を飼うしかなく、見つかる毎に子供達の目の前で平気で殺されてゆく……。神父は止めようとするが無力だった。ヴラデックの女友達、マリアの両親もナチに処刑されていた。ロメックは思う----「世界はめちゃくちゃだ、2たす2は4ではない……」。選んだ男の子とアソコを見せ合う遊びなんかをしているマリアに、神父は「聖体拝受まで純潔でいるように」と言い、その時に食べる丸い聖餅が何かを子供達に訊く。「ウエハース」「いや、ロメック?」「イエス・キリストの肉と血です」。と、神父は手のひらをナイフで切って見せるのだった。ある日、神父は子供達に「12使徒」のそれぞれの役を振るゲームを教える。トロは「イエス様も入れなきゃ変だ」と言い張り、自らイエス役に志願するのだった。「磔だぞ」「いいもん。でももう僕を川に落としたりできないからね!」。それから彼の奇行がはじまる。手に釘を打とうとしたり、茨の冠を帽子の下にしてみたり……。もとは遊び仲間のピラが「訓練したらイエスになれる」とそそのかしたせいなのだが……。やがて酒癖の悪い隣人クルーバと一緒に夜闇をついて豚を売りに出掛けたグニチオが、死体となって帰ってくる。トロの奇行はエスカレートする。雨の中を走りまわって病気になったり、自分を磔にするように頼んだり……洗礼ゴッコを真剣にやった後、トロは言う。「僕は磔になる。そしたらあの人達を呼び戻すから……パパ、マリアのパパ、ロメックのパパ……世界は平和になるよ」と。だがピラは年長の不良ロバールについてグループを抜けてしまう。ロバールはクルーバの息子だった。夜。村の側を通る“汽車”から飛び降りる人達を目撃するロメック。ロバールは“彼ら”から金品を略奪するのを日課にしていた。教会で、神父とクルーバが口論していた。グニチオの死について問いつめる神父は、逆にロメックのことでクルーバに脅されてしまう。隠れて見ていたロメックに、神父は「心配しなくてもいい」と慰める。まだ聖別してない聖餅のウエハースを丸く切る作業を見せ、余りの切れ端を与える。「端っこは使わない」「……僕らは祝福されてない?」「人間はみな端っこさ」。マリアはロメックに幼い愛を告白する。「都会ッ子と結婚よ!」とはしゃぐマリア。トロの磔ゴッコに協力してた子供達は、ロバールに冷やかされてゴッコをやめ、本気のトロを哀しませる。教会で、“汽車”の収穫を寄付するロバール。「ママの指輪だ」「別のママのだ」と怒りを隠せないロメック。ロメックとマリアを尾行したロバールは、ロメックを痛めつけて崖から川に落とし、マリアを犯す。こっそり見ていたトロは兄を呼び、ヴラデックは川に飛び込んでロメックを助ける。ヴラデック、マリア、ピラ、ロメックの聖別式が間近に迫っていた……。ヴラデックは父の敵討ちに“汽車”へと出掛け、跡を追ったロメックはヴラデックを逃がそうとして、巡回していたナチスに見つかってしまう。彼が脱走者を処罰していたと思って「偉いぞ」と褒めるナチの将校は、ロメックをサイドカーに載せて、捕まえた脱走者達の所へ向かう。収容所への汽車が停まっている。収奪の仕方を実演してみせろと所望され、ロバールのやっていたように金品を強奪させられるロメック。囚人として捕まっていたヴラデックを「彼は友達でユダヤ人じゃない」となんとか助けようとするロメック。そこにトロが現れて……。

痛い話だ。ナチス占領下のポーランドの田舎であった史実を元にして、ユダヤ人少年の受難を描いたものだが、キリスト教のエッセンスをふりかけて、ちょっと聖人寓話タッチに仕立ててある。原題は直訳すれば「主の端っこ」で、格好良く訳せば「主の栄光の及ぶ世界の縁」(中沢新一のプレス解説より)になる。映画では聖餅の使わない端っこにかけてあって、四角い世界を丸く切り取ったら、人は皆その円の内側ではなく外側にいるのではないか?って問いかけることになる。つまり、主の栄光の及ばない悲惨で不条理で過酷な場所で、それでも「主の栄光」を信じることの意味を問うのだ。で、無神論者の目で映画を見ると、割礼(チンチンの先ッチョを切る)するユダヤ教の異質さよりキリスト教カトリック儀礼のヘンテコさが際立つ。農夫を救えず自らを鞭打って罰する神父とか、「イエスの血と肉を食べる」とか、何より丸いウエハース菓子を食べる食べないで改宗とか背教の大問題に繋がっちゃうのが馬鹿馬鹿しい迷信に思えてしまうのだ。子供達も「イエスは女嫌いだ」とか素朴かつ大胆な解釈をしちゃったり。偽キリスト教徒の主人公のユダヤ少年のほうがスラスラお祈りを唱えられたりするのも皮肉な話だ。現実と乖離した信仰が、戦争やナチ、反ユダヤという現実によって試された過酷な時代の物語は、どれも苦く救いがないのだが、繰り返し語られる信仰者(ユダヤ教もキリスト教も)の受難は、無神論者を居心地悪くさせる“力”を持つ。それを感動と呼ぶこともできるが、教化洗脳に乗せられる気分もあって、なかなか難しい複雑な感慨といった方が近いのかもしれない。

主演のユダヤ少年ロメック役を『シックス・センス』『ペイ・フォワード』『A.I.』のハーレイ君が演じているが、彼は客寄せパンダの役回りで、真の主役は“幼いイエス・キリスト”トロを演じたリアム・ヘス君であった。映画前半、彼の「食べちゃいたい」って思えるポチャっとしたほっぺたに釘付けになっていたら、「キリストの肉を喰う」聖別式の喩えを経て、彼の運命が凄いことになったのでビックリした。キリスト教徒はキリストを食べたいと思ってるんだろうか?なんて余計なことを考えてしまった。映画は「キリストの受難劇」を田舎の子供達で再話してみせる寓意に満ちた構造を持ち、ただ無垢なだけではない子供達のリアルな描写の中で、真摯に“幼いイエス・キリスト”を演じるトロが、寓意劇のピエロ(間抜け)役から真の主役になる瞬間の表情が、全ての観客に巨大な謎を突きつけることになる。キリスト教徒のユダヤ人は、これをユダヤ人達が演じたキリスト教誕生の聖なる出来事を、東欧の白人の子供に搾取されたと見るのではないか、とかイジワルな穿った深読みまでしてしまったのだが、それより聖者の犠牲によってもたらされる奇蹟とは、ナチスが滅ぼされた代わりにアメリカとソ連という二大国に支配されることだったのか?が気になる。社会主義諸国の崩壊後、やっとポーランドでも「加害の事実」が掘り出されてきた。そのおかげで本作が成立しているのではあるが、いまだ世界で戦争は続き、一時小康化していた民族・宗教間の対立は激化したりもしている。「主(神)はいったいいつまで、どれだけの犠牲者・殉教者をお望みなのか?」と、宗教者でなくとも疑義と絶望を訴えたくなる今日この頃。「ブロンソンならこう言うね!」(byみうらじゅん)に倣って「イエス・キリストならこう言うね!」と考えながら日々を送るのも、よりよき未来を築くヒントになるかもしれない。その場合、この映画のトロを観て「なりきりゴッコ」のコツをつかんで欲しいのだった。

で。「やっとポーランドでも『加害の事実』が掘り出されてきた」云々についての余談。ちょっと古い話だが(朝日新聞2001年6/23朝刊記事)、大戦時の1941年7月10日、ポーランド東北部の農村で、村人の過半数を越える1600人のユダヤ人が、隣人であるごく普通の人々によって虐殺される事件があり、虐殺60周年記念式典開催と慰霊碑の建設に当たって何やらモメているってな記事を読んだ。ユダヤ系在米ポーランド人の歴史家ヤン・グロスの『隣人たち』(2000年出版)という告発本によると、村長の号令下、村人達は棍棒や鞭を手に次々と残虐行為を犯し、納屋に入れて焼き殺すなどしたらしい。現場に来たナチ将校が「手工業者は生かすように」と指示したが、ポーランド人は全員殺害を主張したというから、つまりはナチのせいではなく普通の庶民が反ユダヤ・ヒステリーだったってことだ。しかもカトリック教会の神父もユダヤ人虐殺に加担していたらしく、01年5月に正式に謝罪したという。とはいえ日本の関東大震災での朝鮮人虐殺事件についても事実関係の認識に差があるように、ポーランドでも「ユダヤ人も悪かった(ソ連の協力者がいた)」論が横行したりしていて論議を呼んでいるという記事だった。この映画を観てふと思い出して切り抜きを見つけ出したんだけど、この後どうなったのかは知らない(関東大震災の場合は、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマは警察が首謀者だとか、いや民衆のヒステリーであり、身をもって朝鮮人を救った警察がいるとか、あるいは獅子身中の虫としてマジで人種差別的朝鮮人敵視の正当性を訴える輩までいる)。こういう史実を踏まえて映画を観るのも一興かと思うので紹介しておく。

Text:梶浦秀麿

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