[ヒューマンネイチュア] Human Nature
2002年3月9日より恵比寿ガーデンシネマ、銀座テアトルシネマ他にて公開

監督:ミッシェル・ゴンドリー/脚本:チャーリー・カウフマン/製作:アンソニー・ブレグマン、テッド・ホープ、スパイク・ジョーンズ、チャーリー・カウフマン/出演:パトリシア・アークエット、リス・エヴァンス、ティム・ロビンス、ミランダ・オットー、メアリ・ケイ・プレイス、ロバート・フォスター、ロージー・ペレス他(2001年/フランス・アメリカ/1時間36分/配給:アスミック・エースエンタテインメント)

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銃声が響く。森の中、二匹の白い鼠(モルモット?)がカラスに狙われている。動物を擬人化した子供向けアニメのように、そのカラスを撃退する賢い二匹。と、二匹の前に足がある。男が横たわっているのだ。「後悔してますか?」と裁判所に入るライラ(パトリシア・アークエット)を報道が追いかけて問い、議会で証言する紳士然としたパフ(リス・エヴァンス)がいて、真っ白い部屋でオデコに弾痕をつけたネイサン(ティム・ロビンス)が「後悔? 後悔の意味を忘れた……」と戸惑いつつ語り始める……いったい何があったのか? このヘンテコな物語は、以上の三人それぞれの、ある意味「波乱に満ちた人生」について、交互に迫ってゆく。

ライラは語る。12歳の少女の胸にホルモン異常で毛が生え始め、「結婚は無理ね」と母が言う。成長するにつれ毛むくじゃらになるライラは、見世物興行の世界へ。小人と組んでクイーンコング役を演じたりするのだが、虚しさは増すばかり。ついに人間社会を離れ、森の奥での生活を選ぶ。裸で暮らし、嵐で死にかけたりするうち、大自然の中で生きることの素晴らしさを知った(時には神に感謝する歌を歌いだしたりなんかして!)彼女。その自然生活を書いた『ファック・ヒューマニティ』が大ヒットし、ネイチャーライティングのベストセラー作家となる。だが、悠々自適に森での生活を送る彼女を30歳にして襲ったのは、「男が欲しい」という抑えがたい欲望だった。印税で稼いだお金をつぎ込んでエステで全身脱毛に通いつつ、紹介してもらった男が、35歳にして童貞のド近眼で極小ペニスの心理学者、ネイサンだった。ネイサンは優しい男だったが、異様なまでにテーブル・マナーにうるさい厳格な親(というか母)の元で養子として育てられたことがトラウマとなり、今は鼠にテーブル・マナーを学習させる研究に没頭していた。ズレを感じつつも恋人同士となった二人は、ある日、森にハイキングに出掛け、そこで自然に裸でいる男を見つける。ライラは直感的に服を脱いで追いかけ、木の上で接近するが、興奮した男はオナニーに夢中になって木から落ち、気絶してしまう。ネイサンは彼を連れ帰って研究対象にすることに。ネイサンの助手で、何故かフランス訛りの美女ガブリエル(ミランダ・オットー)に「パフ」と名付けられた彼は、ケネディ暗殺にショックを受け人間世界を捨てた父に、森の中で育てられた野生児だった。ネイサンはパフに言葉から教養、礼儀作法までを教え込むことで自らの知性化研究を完成させようとする。電気ショックで脅かされつつテーブル・マナーを学ぶパフは、ついには『白鯨』を読み、哲学議論を交わすような紳士にまでに成長(?)する。だが“ヤリたい”という欲求だけはなかなか制御できず、女を見ては欲情してしまって手痛い罰を受け続けるのだった。ライラはパフを気の毒に思いつつも、夫となったネイサンを立ててあげようと努力する。しかし助手ガブリエルの虜になってしまったネイサンは、結局ライラを捨ててしまうのだった。教化されインテリジェンス溢れる紳士となったパフを連れて、研究発表講演ツアーに出るネイサンとガブリエル。旅先のホテルの隣室で二人がセックスに励むのを聞きながら、悩ましく耳を塞ぐパフ。しかしライラも逆襲に出る。永久脱毛を施し、研究所を襲ってパフを奪い、森の奥へ連れていったのだ。パフを類人猿に戻す再教育(再々教育?)を施し、自然に愛し合うことも教えて、つがいの猿として生きてゆくことに喜びを覚えるライラ。だがガブリエルとの生活や、弟(またしても養子)を猫可愛がりする母(マナーについても何も言わない!)に疑念が生じたネイサンが、「僕も類人猿にしてくれ」と森にやってくる。口論の末、一発の銃声が! 殺人罪で投獄されたライラのために、身だしなみを整えて議会で訴えるパフ。堂々たる人間社会批判、文明批判を終え、再び自然に還ってゆくのだが……。

ヘンテコな現代の寓話を描かせたらサイコーな映画脚本家、『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマンの新作である。『マルコヴィッチの穴』での監督スパイク・ジョーンズは製作に回り、ビョークのミュージッククリップ「Human Behavior」で一躍MTV界の寵児となったミシェル・ゴンドリーが監督。彼の劇場映画デビュー作である。『マルコヴィッチの穴』よりずっと律儀にベタで丁寧なSF的思考実験を行った感のある、シニカルでブラックなメタ・コメディ映画に仕上がっていると思う。ま、なるべく予備知識なしで、このちょっと不思議な世界を存分に味わって欲しいってのが正直なところ。以下は蛇足だ。

手塚治虫の漫画で見たような「先祖返り」とも思われる多毛症の女性ライラをちょっぴり痛々しく演じるのは、『トゥルー・ロマンス』『ロスト・ハイウェイ』『スティグマータ』『救命士』『リトル・ニッキー』などのパトリシア・アークエット(『パトリシア・アークエットのグッバイ・ラバー』なんてのもあったな)。その相手役、「躾けトラウマ」のアダルト・チルドレンである学者ネルソンを、『未来は今』『ショーシャンクの空に』『サベイランス/監視』などのティム・ロビンスが情けなく熱演。でも一番美味しい役は、やはりリス・エヴァンス(『ノッティングヒルの恋人』『ロンドン・ドッグス』『リトル・ニッキー』『シッピング・ニュース』など)だろう。親に仕込まれての擬似・野生児が、二人に思うさま巻き込まれ型で調教され、知的になったり自然に戻ったり×××したり……という役は、彼こそふさわしい。あと男の子としては偽フレンチ美少女の助手ガブリエルをセクシーに演じたミランダ・オットー(『ラブ・セレナーデ』『女と女と井戸の中』『ホワット・ライズ・ビニース』など。『ロード・オブ・ザ・リング』の2作目でエオウィン姫として登場予定)にドキドキしたことを告白しておこう(笑)。色っぽい下着の大人の女ブリッコしてても、自宅では典型的なアメリカ娘的グチャグチャさってのがまた笑えたのだった。また『マルコヴィッチの穴』の怪演が記憶に新しいメアリ・ケイ・プレイスがネイサンのママ役として嫌な母親ぶりをシレっと演じてる他、ロバート・フォスター(ネイサンの気弱なパパ役)やロージー・ペレス(ライラのエステシャン役)なども脇を固めている。

さて。「誰が殺したのか?」で三人の証言が微妙に食い違う、しかもそのうちの一人は殺された本人ってのは芥川龍之介『藪の中』のコンパクト化だし、知性化実験の成功を講演してまわるってのはD・キイス『アルジャーノンに花束を』ネタ----と、この映画には妙に既視感が漂う。なにより「野生児の人間化教育」ってのは、ヘレン・ケラー(野生児じゃなくて三重苦だけど)とか狼少女(『狼に育てられた少女』だったか)とか、漫画『ガラスの仮面』で好まれたように非常に演劇的なネタだ(事実関係に疑義が呈せられているにせよ)。それなのに、なんでこんなに面白くて妙な新しさを感じるのか? 確かに要素要素のネタにはうっすら知ってる感覚があるんだけど、それをひどく律儀に映像化・物語化しているので、シュールに輪郭がスッキリする感じがあるのだ。凝った編集で前後関係も考えるのは面倒だが、大枠をつかめば入りやすい「お話」になってもいる。野生児が躾けられてどんどんジェントルマンになっていく過程をバカ丁寧にやるのが、懐かしのブリティッシュ・ギャグのようでその律儀さに笑うし、「自然礼賛・無垢賛美」と思わせて最後の最後にヒネリを加えるのもヤな感じ(笑)。ここでニヤリとするかモヤッとしたものを感じるかで、観終わった時の感想が違いそうなのも今風の面白さだ。映画の最初と最後に登場する白い鼠も『スチュワート・リトル』ばりの名演技で、ある意味『アルジャーノン』を痛烈に風刺することになってるってのもグーかも。

でも披露試写で観た時、たまたま中東のイスラムの若者に取材した記事を読んだばかりで、その童貞率の高さとか厳しい戒律の影でポルノに飢えてるとかいう現状にモロ同情しちゃってたので、この「フリーセックスな欲望をめぐる寓話」ともいえる『ヒューマンネイチュア』が、本当に「(全)人類の自然or本質」なのかは微妙な所だな、と思ってバカ笑いし損ねたってことも告白しておこう。つーか(中原昌也の小説みたいに)茶化し過ぎかも?って痛い笑いも多いのだ。ちなみにSF小説の「ミュータント/新人類」ジャンルでは、たいてい人間を追い越してしまって超知性から現代社会を批判したり見下したりするものだけど、この映画の世界ではそうした「高み」なんてのも無いってのがどうも前提になってるみたいで、これも潔いというかバカバカしいというか……ま、寓話だからね。他の人は観てどう思うのか、が気になる映画でもあるのだった。またしても渋谷ウケ(上映館は恵比寿とかだけど、『マルコヴィッチの穴』が渋谷の若者ウケしたらしいからさ)するのかな?

Text:梶浦秀麿

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