[es エス] Das Experiment
2002年6月22日よりシネセゾン渋谷にて公開

監督:オリバー・ヒルツェヴィゲル/出演:モーリッツ・ブライプトロイ、クリスティアン・ベッケル他
(2001年/ドイツ/1時間59分/配給:ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ/宣伝:ギャガGシネマ、ライスタウンカンパニー)

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ボクシング・ジムで、相手が倒れてもなお殴り続けるヤツを映す冒頭の点景が、バイオレンスをめぐる物語の始まりを象徴する。タクシー運転手のタレク(モーリッツ・ブライプトロイ)は元ジャーナリスト。だが上司と喧嘩して2年ほど鬱屈した生活を続けていた。新聞の募集広告の中に「2週間、模擬監獄で囚人役と看守役を演じれば報酬4000マルク」という心理実験の被験者公募を見つけた彼は、身分を隠して実験に参加。「恐らく軍の秘密実験だ」と睨んだ彼は、眼鏡にビデオカメラを仕込んで潜入取材し、スクープをモノにしようと考えたのだ。参加直前に、父親を喪って途方に暮れていた美しい女ドラ(マレン・エッゲルト)と出会い、恋に落ちた彼は、この取材で返り咲いた後のドラとの生活を想いつつ、大学の地下に作られた模擬監獄施設に入る。だがそれは人間性の本質が暴かれていく危険な実験だったのだ。アルバイト気分で参加したはずの被験者20名は、かたや「看守役」としてその残虐な暴力衝動を目覚めさせ、「囚人役」は尊厳を傷つけられて卑屈になり、あるいは発狂し、そして……。再三実験中止を訴える助手ユッタ・グリム(アンドレア・サヴァツキー)を無視し、出世欲に駆られたトーレ教授(エドガー・ゼルゲ)は続行を指示。事態はさらに悲惨さを増してゆく。被験者の中には、軍から内部調査にきたスパイ(クリスティアン・ベッケル)もいて、成りゆきを観察しているのだが、やがてタレクと共に闘うことになる。だが同じ頃、本物の看守同様に通勤で外部と接触できる「看守役」のひとり、ベルス(ユストゥス・フォン・ドーナニー)は、タリクを心配してきたドラに魔の手を伸ばしつつあった……。

「刑務所ごっこ」が「ごっこ」でなくなる怖い事態を、サスペンスフルに描いた衝撃のサイコ・バイオレンス・ムービーだ。実際に行われ、以後禁止されているという心理実験が元ネタなのだけど、要はナチスのような支配被支配関係、主人と奴隷関係ってのは、状況を用意されればいつでもどこでも再現してしまうのが人間だってことを思い知らされる映画になっている。もちろん劇的な演出はされているので、劇中で「観察者意識」のある者(記者と軍人)のみが正気を保っていたり、コンプレックスの強さが残虐さの度合いと比例するような描き方は、ドラマティックな虚構かも知れないことは留意すべきだけど、ある面で真実を衝いてる気がするのも怖いところだ。ま、しっとりした大人のラブ・アフェアと実験開始当初の説明描写が交互に続く前半に退屈し、後半のエスカレートし続ける囚人イジメやクライマックスのバイオレンス・アクション描写に興奮したりカタルシスを感じたりする観客の心性をも批評するようなメタ・エンターティンメント映画になっているのが、この作品の凄いところ。普段から「自分が自分を演じている/世界を観察している」と意識して「状況に呑み込まれない」ように心がけてる者こそが「状況に呑み込まれている者」から疎外・迫害されるという視点、また「状況に過剰に適応しよう」として過度に卑屈になったり過度に攻撃的になったりする滑稽な悲劇をも冷徹に描く視点などを、観る者がどれだけ深く心に刻み込むかで、この映画の衝撃度が変わってくるので、そのヘンを心して観て欲しい。あ、でも一級の娯楽作品に仕上がってるので(それもまた罪深い愉しみなのかもしれんが)、ただドキドキしたい人にもオススメはしておこう。『ラン・ローラ・ラン』『ルナ・パパ』のモーリッツ・ブライプトロイが、主人公の雑誌記者タレクを演じている。ドイツ原題は「the 実験」の意。邦題は、本来大文字で頭文字を書くドイツ語の非人称代名詞「Es」をもじったもの(たぶん)。英語で「it」(スティーブン・キング!)というヤツだけど英語圏の心理学用語としては普通ラテン語の「id」に置き換えられる。フロイトの初期の局所論における「無意識」とほぼ一致する概念で、自我(Ich=英ego)はEs=idの組織化された部分とされる。で、英語で「es-」なら「ex-」同様「超-」とか「外-」「非-」「無-」を意味する接頭辞なんだけど、ここは(最近流行の「格好つけ小文字表記」でないなら)「S」の読みを表したものとみて「サド(サディズム)ないし主体(Sujet:仏語)」の略称と考えてあげるのも、映画のテーマの深読みにもつながるのでいいんではないだろうか(笑)。つまり----『禁断の惑星』の「イドの怪物」はサドだった! しかも実はあらゆる主体Sがサドなのだ!! ……とかね。

さて、元ネタとなった心理実験(没個性化についてのシミュレーション)はふたつ。ただ行われた年などについてはプレス資料(心理学者の山岸俊男他執筆)と映画評論家でもある精神科医の斎藤環の映画評とで(見解が?)違うのでナンギだ。いちおうプレスによると、スタンフォード大学で行なわれたジンバルドーによる「監獄実験」は1971年、斎藤環(MテレパルやInterCommunicationの連載)によると1975年。んで「アイヒマン実験」はプレスでは1963年にハーバート大学のミルグラムが行ったことになっているけど、斎藤氏は1965年にイェール大学のミルグラムが行ったと書く。どっちが正しいのか? たぶん(後出しの)斎藤氏なんだろうけど、プレスをそのまま引用する映画ライターが多いので、各雑誌やウェブやTVの作品評が知ったかぶりに見えちゃうのはチェックしておくべきだろう。え、本当の本当はどっちが正しいのかって? それは実験の内容と共に各自の宿題としておこう。入門書レベルだと間違ってる恐れもあるので要注意かもね。

Text:梶浦秀麿

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