[シービスケット] Seabiscuit
2004年1月24日より日比谷スカラ座1ほか全国東宝洋画系ロードショー

監督・製作・脚色:ゲイリー・ロス/原作:ローラ・ヒレンブランド『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』(ソニー・マガジンズ刊)/出演:トビー・マグワイア、ジェフ・ブリッジス、クリス・クーパー、エリザベス・バンクス、ゲイリー・スティーヴンスほか
(2003年/アメリカ/2時間21分/配給:UIP)

→トビー・マグワイア来日会見レポート
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【STORY】
1910年、ニューヨークからサンフランシスコにやって来た自転車修理工チャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)は、後のGM社の主力ブランドとなるビュイックと運命的に出会い、自動車ディーラーに転業。その巧みなセールス・トークを武器に、数年後には西海岸で最も成功した男となる。

だが1929年の大恐慌による打撃を乗り切ろうと悪戦苦闘する最中に、まだ14歳だった最愛の息子フランキーを自動車事故で亡くし、ほどなく妻も去ってしまうのだった。ワイオミング州の大平原で野生馬を追うカウボーイだったトム・スミス(クリス・クーパー)は、まず自動車道の発達で行き場を失った。食いぶちを稼ぐため馬の調教師としてワイルド・ワイルド・ショー興行に雇われ、各地を巡業することになるが、そこに今度は大恐慌の波が押し寄せ、貨車の無賃乗車で移動する季節労働者ホーボーの群れの中に混じって生きることとなる。天涯孤独の騎手ジョニー・“レッド”・ポラード(トビー・マグワイア)も、その大恐慌で裕福な大家族から一転、無一文で路上に放り出され、一家離散に見舞われた若者だった。幸せな少年時代に覚えた乗馬の才能だけが頼りだったが、騎手にしては背が高過ぎ、勝ちを逃がすごとに雇い主を転々とし、ボクシングの野試合で糊口を凌ぐしかない無名騎手として生きていた。

そんな三人が、1933年のメキシコ・ティファナでまずニアミスする。「気晴らしに」と誘われるまま長期滞在し、それでも鬱々としていたハワードは、遠縁の美しい女性マーセラ・ザバラ(エリザベス・バンクス)から乗馬に誘われ、立ち直るきっかけを得る。現地で彼女と再婚し、馬を買うことにしたハワードは、そこでトム・スミスと出会うのだ。野宿を好む偏屈な調教師は、だが怪我した馬を射殺から救う心を持っていた。そこが敗者復活の志気を高めつつあったハワードの琴線に触れたのだ。実はレッドもその隣の競馬場で闘っていたのだが、彼が二人に合流するのはこの後、NY州サラトガ競馬場に騎手として売り込みに来たものの、結局厩舎での雑用係としてしか雇ってもらえず、腐っていた時のことだった。悪い癖のついた三歳の小柄な競争馬が、そこで破格の安値で売りに出されていたのをハワードとトムが見つけ、その乗り手として抜擢されたのだ。その無名のチビ馬こそ“シービスケット”だった。こうして、心に深い傷を負っていた三人の男と一頭の運命的な出会いは、やがて奇跡を生む。最初はぎこちない関係だった彼らは、徐々に家族のような深い絆で結ばれてゆき、シービスケットは連戦連勝を重ねるようになる。逆境を跳ね返したこのチビ馬の雄姿は、長引いた不況で辛酸を舐めていた庶民にも生きる希望と勇気を与え、“貧しき者達のヒーロー”として熱狂的な人気を獲得したのだった。

だが試練は何度でも彼らを襲う。レッドは騎手として再起不能の重傷を負い、シービスケットもまた競走馬として致命的な怪我をしてしまう。もはや伝説も終幕かと思われた。だが、傷だらけの騎手と負けん気の強いチビ助は、挫けずに再起への想いを抱き続け、何度目かの奇跡を自らの手でつかみ取ろうともがき続けたのだ。そして……。

【REVIEW】
そうか! アメリカが1930年代の大恐慌の痛手から立ち直ったのは、ルーズベルト大統領のニューディール政策の効果でも第二次世界大戦景気でもなくて、たった一頭の競走馬ビスケの活躍のせいだったのかああ!!――と、まずそう思わせぶりに堂々と語る本作のナレーションにビックリ仰天し、たとえそれが話半分でも凄い説だと思わず感心してしまった。もちろん本筋は「伝説の競走馬をめぐるホースマン達」の感動的な実話、そのハリウッド流大作映画化なので、安心して愉しめる水準はきっちりキープしている。とにかく主要3人に非運が舞い込むシーンにはハラハラドキドキさせられるし、でも彼らが互いに心の傷を舐めあうようなベタな演出なんて一切ないのも渋くてかっこいい(主要人物が過去の非運や苦労を、他人に涙ながらに語るような場面なんて、ただの一度も登場しないのだ)。走る馬の姿も美しいし、その何度も起こる奇跡の勝利シーンには泣きそうになっちゃいもした。いい話なんだ、これが。とにかくまず何も考えずに観て、ジンワリ感動しよう。しかしこういうストレートな感動大作映画って、実はいろいろ仕掛けがあるんだよなぁ……。

本作『ビスケ』(個人的略称)は、女性競馬ジャーナリストのローラ・ヒレンブランドが書いたベストセラー・ノンフィクションを、『カラー・オブ・ハート』で監督デビューしたゲイリー・ロスが製作・脚色も兼ねて映画化したもの。ゲイリー・ロスは脚本家出身(『ビッグ』『デーヴ』『Mr.ベースボール』など)で、クリントン大統領のスピーチ・ライターなどもやってて民主党派であることも隠さない人なので、そこらへんの政治的意図を深読みしてみるのも面白いかも。本作のナレーターに抜擢されたデヴィッド・マッカロー(マックロウとも)は歴史学者で、F・ルーズべルト(ローズヴェルトとも)大統領の伝記ビデオ“ジ・アメリカン・エクスペリエンス・シリーズ”『FDR』全4巻(94)のナレーターや、『トルーマン大統領/今明かされる真実』(95)の原作者でもあり、他にも全米でベストセラーになったアメリカ第2代大統領の伝記『ジョン・アダムズ』を書いてたりする。なんか史実捏造問題で糾弾されたりもしてるらしいけど……。あ、ルーズベルト[任期1933-45]もトルーマン[45-53]もクリントン[93-01]も民主党である(で、フーバー[29-33]とかレーガン[81-89]にブッシュ父子は共和党ね)、念のため。ちなみに馬の名前シービスケットは「海軍用乾パン」のことだとか。僕はチビ助って意味も込めてビスケと呼ぶことにした←こら勝手に愛称決めんな。

で、『アイス・ストーム』『カラー・オブ・ハート』『サイダーハウス・ルール』『スパイダーマン』、そして超楽しみな『スパイダーマン2』が控えるトビー・マグワイアが天涯孤独の「傷だらけの騎手」ジョニー・“レッド”・ポラード役を好演。場主である自動車販売会社社長チャールズ・ハワードをジェフ・ブリッジス(『スターマン 愛・宇宙はるかに』『タッカー』『フィッシャーキング』『ビッグ・リボウスキ』『光の旅人 K-PAX』など)が、孤高のカウボーイ調教師トム・スミス役をクリス・クーパー(『アメリカン・ビューティー』『パトリオット』『ボーン・アイデンティティー』『アダプテーション』など)が演じ、「過去の痛みを持つ影のある三人組」という絶妙なアンサンブルを醸し出す。またハワードの妻マーセラを『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『スウェプト・アウェイ』『スパイダーマン』『スパイダーマン2』のエリザベス・バンクスが華はあるが慎ましく三人を見守り、サンタアニタ競馬場の名物実況アナウンサー“ティック・トック”・マクグローリンを『ファーゴ』『ブギーナイツ』『カラー・オブ・ハート』『マグノリア』『ジュラシック・パークIII』などの個性派ウィリアム・H・メイシーが含蓄のあるコミカルさで盛り上げるのだった。レッドの永遠のライバルであり唯一無二の親友となるスター騎手ジョージ・“アイスマン”・ウルフ役を、名誉の殿堂入りをした現役ジョッキーであるゲイリー・スティーヴンスが本職の役者顔負けの名演技をみせているのも見逃せない。

さて。気になったこと(余談その1)。翻訳で520ページ強ある原作ノンフィクションを縮めるため、起こる事件も史実と違って前後に移動させたりまとめちゃったりしてあることは、映画プログラムにも載ってる実際の年譜からもすぐわかる。のだが、こうした方が観客も感情を持って行きやすく、すっきりコンパクトなのは確か(とはいえそれでも2時間21分あるのだが)。だからそれは大歓迎なんだけど、ただし年号&時間経過テロップがちょっと未整理なので、前半は観ていて「?」が渦巻いて困ってしまったのだ。“レッド”・ポラードは、映画では1929年10月の大恐慌後に家族と離ればなれになり、「6年後」というテロップの後に、ちょっと背の高過ぎる騎手になって鼻差で負けて叱られてる描写があり、でもその後のシーン、「1933年、メキシコ・ティファナ」では既に騎手生活の長いヤサグレ者として登場したりするのだ。1933-1929=4である。この監督、引き算もできんのか? さらにそのティファナでハワードはどうも数カ月以上滞在したらしく、原作と同じ版元から出てる文庫版ヴィレッジブックスのシナリオによると、ハワードとマーセラが出会ってから「6ヶ月後」というテロップの後に結婚式を挙げるのだけど、完成した映画ではそのテロップが省かれてて時間経過がわかりにくくなってて、その後の「3ヶ月後、NY州サラトガ競馬場」ってテロップも、だから33or34年頃に思えてしまうのだ。実際には1936年にマサチューセッツ州ボストンのサフォークダウンズ競馬場でまずシービスケットが買われ、レッドはその後ミシガン州デトロイトのフェアグラウンズ競馬場で初めてシービスケットに出会うんだけど、映画では「NY州サラトガ競馬場」で、シービスケットとレッドが抱き合わせでトムにスカウトされるという処理になってる、ティファナの話から「3ヶ月後」に。まあ抱き合わせでスカウトされたことにするのはドラマチックで全然いいんだけど、そこでビスケが「三歳馬」として描かれる以上、このシーンはやはり1936年でなければならないし、じゃないと最後のクライマックス、1940年サンタアニタ・ハンデ戦でひょっとして10歳馬なのかい?って勘違いしそうになるのだ。あるいはまたレッドの「6年後」話がここに入ってれば、大恐慌後にデビューという映画での設定が活きるのになぁとかも後から思った(現実には大恐慌以前の25年に騎手デビューしてるんだけど)。もしかして「繋ぎ間違い」?とか「字幕ミス」かもと疑ったんだけど、少しエピソードが多めのシナリオ本の時点で既に、順番もテロップ表記も現行のまま。ということはやはり「足し算引き算ができない監督」説が有力なのか? それとも時間を無意味に前後させる凝った構成なのか?? 「禁酒法廃止って1933年だよな、競馬が再開したのもその頃だっけ?」なんて、頭の中で時間の流れがグルグルしてしまう僕なのであった。だからたぶんテロップの「6年後」→「6ヶ月後」、「3ヶ月後」→「3年後」にするのが一番辻褄が合うと思うんだけどなぁ……。「せっかくの感動作なのに、余計なこと考えさせんなよーっ」って気分になってしまったのである。プンプン。

余談その2。冒頭いきなりT型フォードの部分アップ写真がきて、フォード社の自動車大量生産システムの話が始まり、それがアメリカ人の労働形態を変えたことを非難するかのようなナレーション(歴史学者の!)に聞こえるので、「なんだなんだ?いきなり資本主義フォーディズム批判か?」と身構えると、一人の自転車修理屋がサンフランシスコに飛んで、(T型フォードではなく)ビュイックの販売で大成功…ってな「西部で夢が叶う」幻想を地で行くエピソードが展開する。と思ったら滅びつつある「大西部の自然」を愛するカウボーイの姿が淡々と挿入される。彼は「自動車」産業によって生業をなくすのだ。皮肉な対照である。次には文学的教養を重視する裕福な家庭の団欒が描かれ、親に馬を買い与えてもらうその16歳の長男が、たぶん騎手になるんだろうな…と予感させる。なかなかタイトルロール=シービスケットが登場しないので、この3人の半生をじっくり観るしかなく、そうすると1929年10月にウォール街に発した世界経済大恐慌が記録映画風に再現されて、思わず歴史のお勉強をしてしまうことになる。実写と記録写真とがないまぜになって、戦時下か世界の終末かってな悲愴感で、大不況時代の暗い世相が迫ってくる。そして、破産して家を失い、一家離散の憂き目にあった人々の代表選手としてトビー・マグワイア演じる“レッド”・ポラードが、また苦渋の社員大量首切りを迫られる経営者側の代表としてジェフ・ブリッジス演じる自動車販売会社の叩き上げ社長ハワードが、つまり経済的強者と弱者の典型例がクローズアップされてる感じで語られるのだ。ここでも「自動車」が、失った“家”の代わりとなって失業家族の民族大移動を促したという風に解説され、それがちょっと断定口調なのは、古き良きアメリカの「馬の時代」(移動は制限されてはいたが住む場所が無くなるなんて考え難い時代)との落差を言い立てたいような意図を感じる。まあその古い時代の生き残り、クリス・クーパー演じるトム・スミスも、見世物西部劇ショーやら季節労働者の群れに混じったりして各地を彷徨ってるんだけれど……。そしてなんとか苦境を乗り切ったハワードにも、自分を成功に導いた「自動車」が愛する者の未来を奪うという、まるで因果応報の「呪い」めいた悲劇が襲う。こうした三者三様の非運がしっかり描かれた後で、さらに不遇を託っていた三歳馬シービスケットがやっとこさ登場。その数奇な半生を登場時にサクサクまとめて語られるシービスケット(これも歴史学者のナレーションなのがユーモラスなんだけど)が、三者の出会いに合流する時、彼らの流転する運命は、「なるべくしてそうなった」かのような神話英雄的な色彩を帯びてきちゃうのだ。もうここから語られてゆく競馬レースの数々は、もはやギャンブルや競技などという下界的俗事などではなく、壮大な神話伝説の舞台なのだ――ってわけ。いやナレーションを注意深く聞き過ぎると、そう言いたげな雰囲気に気づくはず。
 日本にも、富や幸運の遍在(偏り)を何かの犠牲の代償として説明しようとする「長者伝説」の類いが多数ある(例:あそこの地主が裕福なのは昔、旅の行者を泊めて、殺して宝を奪ったからだetc.)のだが、この映画で行なわれてるのも、そうした伝説化作用であるのは間違いない。ただし映画では規模をデカくして、全アメリカ人向けの「なるべくしてそうなった」伝説に仕立ててある感じがする。曰く――自動車が古き良き生活を破壊し、その報いで大恐慌や悲劇がもたらされ、人々の心はバラバラになってしまった。だが神は貧しくとも必死で生きる者、悲嘆のどん底から立ち上がろうとする者を見捨てない。驕りを捨て罪を悔いた時(←ここ省略。あ、でも奇跡的快進撃が始まる前のタイミングに、皆で長老派教会に行くシーンはある)、みすぼらしいチビ馬が颯爽と現れて名馬へと変身し、敗者復活の神話を駆け抜けるのだ。そして人々は癒され、アメリカは再び復活する!……。ううむ。はたしてこういう語り口は、アリなのだろうか? というか、映画評論家の誰もそこを指摘していないようなのはどういうことなのか?

具体的な例を見てみよう。レッドがハワードに雇われることになった後、だが列車での移動中、車両間の寒い所で煙草を吸い、マーセラに即されても皆のいる暖かい車内に入ろうとしない場面があり、独りになりたいのか世を拗ねてるのか、「打ち解けてないんだなぁ」とだけ思わせようというのか、それ以上心情説明みたいなのは特にないシークエンスだったので、舌っ足らずな印象を受けた。そしてハワードの「我が家だ!」って台詞で到着した、いかにも暖かい“家”って描写があって、観客には「ああ、そこは息子の死んだ家でもあるんだよなぁ」とか「レッドが少年時代の暖かい家庭を思い出しちゃう、まずくない?いや再び家ができたってことで喜ぶのか?」といろいろぶわわっと想像させるんだけど、そんな想像を裏付ける心情描写が省かれてて、あっさり夕食のシーンになる。で、美味そうな具沢山のスープに手をつけないレッドを観て、「遠慮してるのかな、減量の為に我慢してるのかな」と僕らは思うんだけど、「食えよ」「腹が減ってなくて」「そんなはずはない」「…入りません」「食べろ…体力をつけなきゃ」とだけやり取りがあって、スプーンでそっと口に運んでゴクン、そのたった一口がスゲー美味そうに見えるその場面の後、いきなりナレーションが「救済事業は救済以上のものだった」と入って、ルーズベルト大統領のニューディール政策下のいろんな貧困救援団体、NRA(全国復興庁)、WPA(公共事業促進局)、CCC(市民保全部隊)、PWA(公共事業局)などを並べ立て、「結局どれも一緒だった」と妙にクールな説明が続き、「やっと暖かい手に触れ、孤立無援の日々から救われるということだった」なんて“アメリカ社会全体の動向”としてドキュメンタリー番組の公正な解説風に語られるのだ。でもこの社会背景解説の語りは、登場人物の心情を解説していながらも、直接的なものではないので「レッドを救う救済事業が孤立無援だった彼を暖かく迎え入れた」なんて意味を即、読み取るのは禁じられているワケで、妙にもどかしい感じが気になったのだ。つまり民衆の感情にまで踏み込んでしまう歴史語りの際どさ(歴史の解釈や価値判断が過剰に入ってしまっている)と、本筋の言葉少な目なキャラクター達の描写(こっちは物語的な解釈で肉付けされて普通なのに、ほとんど行動描写の連鎖と単純な感情表現でしか描かれない)とのギャップが、そのギャップを利用する形で確信犯的に共犯関係にあることが、いわゆる「実話をもとにした娯楽大作映画」の中でもちょっと特異な試みだと思われるのだ。ま、確かに昔からあるプロパガンダ(政治宣伝)映画の手法(モンタージュとか)ではあるんだけど、さりげないし堂に入ってるので、一見気にならないところがクセモノなんである。この同じ手法で、クライマックスには「長い不況を追い払ったのはダム工事やなにかの公共事業の力ではなかった。1年前には無かった、目に見えない力が作用していた。打ちひしがれていた者達が、急に気力を取り戻し、声を取り戻したのだ」とナレーションが入るのだから、もはや歴史を語る公正な語り口としては逸脱していて、ビスケ伝説に肩入れし過ぎたその解説は、不況時代の実話を神話化し、カリスマ神話英雄の誕生を言祝ぐものとして積極的に機能してしまうのだ。いや凄い。この歴史家デヴィッド・マックローのさりげない語り、下手するとポピュリスト=大衆迎合政治家のマニュアルとして「使える」感じなのが、ちと怖くもあるが……。「人気者こそが救世主であり世直しを先導する英雄となる(そしてしばらく忘れられるが国威掲揚などの目的を裏に隠して人気が復活する)」ってな図式を、「全米が泣いた勇気と感動の実話、ついに映画化」(公開時コピー)という売りで押し出して、しっかりアカデミー堂々7部門ノミネート(作品賞・脚色賞・撮影賞・編集賞・衣装デザイン賞・美術賞・音響賞、発表は現地時間2/29。ただしゴールデン・グローブ賞の方はドラマ部門作品賞と名脇役ウィリアム・H・メイシーの助演男優賞どちらもノミネートのみで終わったので、受賞の望みは薄いが)の大作映画としてキチンと成立させてるってのが、やはり凄いと思うのだった。今の日本で、この手法を応用して「長い不況から脱出しよう!」ってやる手もあるが……そうか『プロジェクトX』とか「教科書から消えた偉人伝」みたいなのって、実はそういう試みだったのか、とか思いつきで言ってみたりして……。

最後に僕の大好きなシーンをひとつ、挙げておこう。広大な野山、美しい自然の中、ビスケとレッドがゆったりとお喋りしながら散策し、時に寝そべった馬の背を枕に、コールリッジの『老水夫の歌(老水夫行)』を読む……。

<「『老水夫行』は、一般にそう教えられているのとは反対に、直喩や踏韻や声喩法に関する詩ではない」ブライアリー先生がニ時限の英語の授業のような口調でいった。「そしてまた、あほうどりや、妙な綴り方をした単語に関する詩でもない。『老水夫行』は死と絶望、そして再生に関する詩だ」……>――コニー・ウィリス『航路』(ソニー・マガジンズ)より。

実は映画『シービスケット』で引用される文学作品群(シェイクスピア『真夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』や、エミリ・ディキンソンやディケンズやワーズワース、『千夜一夜物語』や『白鯨』など)、SF『フラッシュ・ゴードン』(と月ロケットの絵柄のポケット・ゲーム)などのいくつかにも、場面場面に即した意味が愚直なまでに込められている。単に文学好きなレッドのキャラ表現や高尚ぶりっこな飾りだと思ってたら恥をかくんだけど、もはやそういうことを恥だとも思わない時代すら終わってしまっていて、それも「自動車産業いやさフォーディズム資本主義のせいだ」と、この映画が言いたげな風にもとれるのが、個人的にはニヤリとしてしまうのだった。コージーな雰囲気の中で馬の背にもたれて読書ってな時、さて僕なら、何を読むんだろうなぁ……。ううむ、生き方のセンスを問われてるぜって感じで、ついワクワクしてしまうのだった。

<闘牛士でない限り、人生を徹底的に生きているやつなんて、いやしないよ>――アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』(新潮文庫ほか)より。

と、原作本の巻頭に引用しているローラ・ヒレンブランドだが、そのベストセラー・ノンフィクションの所々が文学的過ぎる表現だなんて皮肉られてたりもする(Amazon.comの引用例だと「彼の歴史は吹雪の中に現れた天空の蹄の跡だ」とか「カリフォルニアの日差しには、衰え行く季節の白目製の円柱が含まれている」など)。そしてこの映画もまた原作の優れた文学的批評でもあること(闘牛場に背を向けるハワードの場面を敢えて入れるとか)を踏まえて、もう一度観てみるのも、いいかもしれない。

Text:梶浦秀麿



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