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『菖蒲』Tatarak

巨匠アンジェイ・ワイダ監督による新たなる地平の傑作

観劇後にまず口をついたのは「すごい…」というただ一言。映画という芸術がもつ表現の奥深さでこんな表現もできるのかという新鮮な驚き。この作品のなかで味わった眩暈のような、えも言われぬ感覚は、まさに映画だからこその体験であり、それが製作年時に御年83歳であったアンジェイ・ワイダ監督によるものだということに。巨匠によるそのいまだ衰えぬ、みずみずしい手際を前に背筋が伸びるような感覚すら感じ、あらためてアンジェイ・ワイダ監督の偉大を感じた傑作だ。

この映画に関して、あらかじめ、あまり多くの予備知識を得ずに鑑賞するのもよいと思う。予備知識なく鑑賞したときの感覚と、鑑賞後に本作の構成がもつ意味や意図を感じたり、知った後の腑に落ちるような感覚は、それぞれ違った味わいがあり、そのどちらも素晴らしいからだ(そいういう意味では、以下は観賞後に読んでいただくのが良いかもしれない)。

本作では、前作『カティンの森』の重厚な作品から一転して、美しくたゆたうような、それでいて重層的な生きること、若さと老いること、そして死に向き合うことを、愛を通して見つめている。

そして、この映画は3つの世界に分かれている。原作である作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの同名短篇小説による物語「菖蒲」。主演のクリスティナ・ヤンダが本人として、夫であり撮影半ばにして亡くなった監督の盟友でもある撮影監督エドヴァルト・クウォシンスキとの最後の日々を語るモノローグ。そして、監督自身も映し出される本作の撮影風景。

物語は、菖蒲がゆれる大河の近くのポーランドの小都市が舞台になる。長年連れ添った医師とその妻マルタ(クリスティナ・ヤンダ)。夫は、妻が重篤な病状にあることを知ってしまうが、告げることができないでいた。そんなあるとき、マルタは美しい青年と知り合う。忘れていたものを思い出すようにその青年に心が揺れ動きはじめるマルタ。そして、青年との次第に距離を縮まっていく。自身の死期を悟ってなのか、青年に近づくにつれ美しく輝きだすマルタ。

一方、モノローグのシーンでの彼女の心象を表わす映像は、20世紀のアメリカの具象絵画を代表する画家、エドワード・ホッパーの「朝の日ざし(morning sun)」(※2枚目の画像参照)、「朝日に立つ女(woman in the sun)」へのオマージュでもある。このシーンについて、アンジェイ・ワイダ監督は次のように語っている。

ロケから戻った私に、クリスティナは自ら書いた数ページの原稿のプリントアウトを渡してくれました。私は読みながら、胸を衝かれました。そこには、私の生涯の親友エドヴァルト・クウォシンスキの最期の日々が記されていたからです。「私だけに読ませてくれるつもりなのか?カメラに向かってこれを語ってみる気はないか?」彼女ははっきりと、「ほかの人たちにも話したい」と答えました。そのとき私は、ふと考えました――「彼女はこういうことを思いながら、毎日ロケからホテルに帰るのか、そして孤独のうちに“あの瞬間”を思い出しているのか」と。ただちに私の目の前に、孤独な女性がホテルの部屋ですごす様子を描いたホッパーの絵画が思い浮かびました。

エドワード・ホッパーの絵画そのもののように窓からの光や全体の色彩が素晴らしいが、その光がもたらす影の“黒”が何とも言えないほどに美しい。それを踏まえたうえでの、終盤のモノローグのシーンでクリスティナ・ヤンダの表情を隠す影には鳥肌が立つほどだ。

また、この作品がアンジェイ・ワイダ監督からのエドヴァルト・クウォシンスキと女優クリスティナ・ヤンダへの愛だと考えると(この映画はエンド・クレジットでエドヴァルト・クウォシンスキに捧げられている)、物語としてのラストシーンのその奥にある感情には心が震える。

虚構のなかの物語、現実を語るモノローグ、そしてメタ・フィクション的な撮影風景の3つが絡み合い、ひとつひとつが重層的に意味を補完し、万感の感情を醸し出す。いつのまにか作品のなかに引き込まれ、映画、物語、監督、俳優、そしてひとりの人間など語りきれないほどのいくつもの角度から作品が立ち上がる。

2011年のベルリン国際映画祭では、「映画芸術の新しい展望を切り開いた作品」に授与されるアルフレード・バウアー賞に輝いている。3つのそれぞれの要素はけっし新しいものではないが、奇を衒うことなく、見事な手際でこういった作品に成し遂げてしまうアンジェイ・ワイダ監督に万雷の拍手を送りたい傑作だ。


Reviewer : yuki takeuchi

ABOUT THIS FILM

10月20日(土)岩波ホール にて公開

(2009年 /ポーランド / 87分 / カラー / ポーランド語 / シネマスコープ)

監督:アンジェイ・ワイダ、原作:ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ「菖蒲」

出演:クリスティナ・ヤンダ、パヴェウ・シャイダ、ヤドヴィガ・ヤンコフスカ=チェシラク、ユリア・ピェトルハ、ヤン・エングレルト

配給:紀伊国屋書店、メダリオンメディア

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