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『塀の中のジュリアス・シーザー』Ceasare deve morire

虚構と現実、映画と演劇、塀の中と外、あらゆる境界を越えるチカラ

『父/パードレ・パドローネ』『サン・ロレンツォの夜』で知られる、世界的巨匠パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の最新作は、本物の刑務所のなかの服役囚たちが「ジュリアス・シーザー」を演じる過程を追う。しかし、それはドキュメンタリーという枠におさまらずに、さまざまな境界を越える素晴らしい、2012年ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ、エキュメニカル審査員賞W受賞も納得の作品として昇華されている。

イタリア、ローマ郊外の刑務所では、服役囚たちが演劇実習として毎年様々な演目が演じられ、それは最終的に一般客の前で披露される。本作のなかで取り組まれたのはシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」。その多くが重い罪を背負う服役囚たちが、オーディションを経て、そして本番へ向けて刑務所のなかの様々な場所で稽古をはじめる。しかし、役柄へと近づいていくなかで自分の罪を役柄の境をなくしていくうち者たちがあらわれる。同時に、この作品自体もドキュメンタリーという枠を越えはじめる。観客は、リアルを観ているのか、演じられた世界を観ているのか惑わされ始める。

序盤のオーディションで、それぞれの服役囚たちは自身の経験などに照らし合わせて演技をするが決してうまいとは言えない。しかし、虚構の世界を通じてそれぞれの役柄の抱える罪を演じるに従い、彼らは現実の罪と向かい合いはじめ、葛藤し、そして役柄そのものになりはじめて、存在感を増してく。この過程の迫力が凄まじい。フィクションがリアルを補完する瞬間だ。

演劇(もちろんあらゆる芸術もそうだが)には、ある条件のもとで心に思い浮かべた(させた)イメージを、いま目で見ている現実に重ね合わせて見せるチカラがある(このチカラを演劇的な手法をもって、映画のなかで実践させようとしたがラース・フォン・トリアー監督の『ドックヴィル』とも言える)。たとえば、なにもない空間も思いの通りの場所にすることも、そこにないものをあるように見せることもできる。この作品の中でわたしたちは、刑務所そのものをいつのまにか古代ローマとして見始めるし、(舞台に立つ前の)服役囚たちを「ジュリアス・シーザー」の登場人物として見始める。現代において当たり前のようになってしまっているCGなどの演出など使用せずに、また、服役囚たちが舞台用の衣装をまとわずとも、わたしたちは、もう彼らの“世界”を見ることができている。そして、彼ら自身も、そこが罪を償う場所であるという現実から離れ古代ローマへ、そして自分自身の演技という行為から離れて登場人物そのものへと移っていく。それこそが、想像力であり、ダジャレではないが創造力というものだ。ただ与えられた物語(スクリーンや舞台)を観るだけではない。その想像力をもって(促されることで)はじめて、あらゆる芸術がもつ表象というチカラが大きく翼をひらくのだ。この作品では、それがあらゆる境界をもって示される。ドキュメンタリーとフィクション、映画と演劇、(白黒とカラー)、そして塀の中と外…、また表象というチカラの効用とある種の残酷さ。自由の獲得は同時に、それだけの代償の獲得でもある。

ある服役囚が監房の壁に貼っている海辺の写真がとても印象的だ。彼らは晴れやかな舞台を演じきり、それぞれの監房に戻ったとき、本当の意味での想像力の効用とその残酷さを知る。それは彼らに「塀の外」を想像させる。それは罪を含む過去へと向いている刑務所での生活を、現在から未来へのベクトルへ変えさせる。「外」を意識することは同時に「内」を意識させることでもある。それは、「世界」と「自分」ということもできるだろう。そして、この作品は同時に、わたしたちに、あらゆる境界を越えるチカラそのものに気づかせてくれる。

2012年ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ、エキュメニカル審査員賞受賞


Reviewer : yuki takeuchi

ABOUT THIS FILM

2013年1月26日(土)
銀座テアトルシネマほかにてロードショー

監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演:コジモ・レーガ、サルヴァトーレ・ストリアーノ、ジョヴァンニ・アルクーリ、アントニオ・フラスカ、ファン・ダリオ・ボネッティ、ヴィンチェンツォ・ガッロ、ロザリオ・マイオラナ

(2012年 / 白黒&カラー / 76分 / ヴィスタ / ドルビーデジタル)

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