UNZIP

『ドストエフスキーと愛に生きる』THE WOMAN WITH THE FIVE ELEPHANT

ドストエフスキー文学と共に生きたある女性翻訳家の半生を追ったドキュメンタリー

「言葉にせずに何かを伝えることはむずかしい」。とても当たり前のことだが、彼女の口から発せられたその言葉は、とてもとても胸に迫る。

スヴェトラーナ・ガイヤー。80歳を越えるロシア語をドイツ語に訳する翻訳家の傍らには、机に積まれた分厚い本がある。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『白痴』。ロシア文学の巨匠ドストエフスキーの長編小説だ。90年代に彼女の手によってドイツ語に訳され、出版されたこれらの新訳小説は、ドイツ文学界の偉業として称えられている。その影には、スヴェトラーナの波乱に富んだ、数奇な人生があった。

スヴェトラーナは1923年にウクライナ・キエフで生まれる。スターリン政権下で少女時代を過ごし、文学好きだったスヴェトラーナは、母親のすすめでドイツ語を習う。そして、激動の時代がやって来ると、戦時下で父親や友人を失うが、彼女はドイツ語通訳と働き、なんとか生きのびていく。戦後は、自身の居場所を探すために故郷ウクライナを離れる。そのときに、彼女を支えたのは文学と翻訳という仕事だった。スヴェトラーナは戦争で失くした家族や友人だけでなく、何十万、何百万の人々がなくなった悲劇を生きのびた自分に対して、「私には負い目がある」と語る。そっして、それから40年という歳月を文学とともに翻訳という行為にその身を捧げてきたスヴェトラーナ。あるとき、息子の不慮の事故をきっかけに、孫娘と共に自分自身のルーツを取り戻すために、故郷を出てから初めてウクライナに旅に出る。

スヴェトラーナの歴史が深い皺に刻まれたような手。その手で丁寧にひとつひとつ作業としていく姿。スヴェトラーナの落ち着いた暮らしと立ち振る舞いは、それらを見ているだけでも、どこか心が洗われていくような気持ちになる。スヴェトラーナは本当に美しく、魅力的だ。そして、彼女がときおり語る翻訳という仕事への情熱。ただ、言葉を文字通りに翻訳していくだけでは伝わらない。原文に自ら寄り添い、心で読み解き、ひとつひとつ言葉に紡ぎ出すようにしていく。それは、言葉に寄り添い、言葉を訳すことで時代を生き、言葉が異なる人々の間に立っていたスヴェトラーナだからこその深い深い言葉だ。言葉がなくても人々の気持ちが伝わるのであれば、悲劇の歴史ももっと違ったものになっていたかもしれない。言葉が人々を分かつこともある。そのような現実を見てきたからこその言葉だ。

スヴェトラーナという素晴らしい名翻訳家について、そして、普段知ることの出来ない翻訳という行為の奥深さを深く知ることが出来るドキュメンタリーだ。私には、ロシア語をドイツ語に訳すスヴェトラーナの仕事に直接触れる機会は、たぶんないだろう。しかし、これからは翻訳された文学の言葉の向こうにスヴェトラーナの姿はみることがあるだろう。そして、スヴェトラーナの言葉は、翻訳だけでなく、「言葉」を扱う私たちの日々の営みを少し照らしてくれるような気がする。


Reviewer : yuki takeuchi

ABOUT THIS FILM

2月22日(土)、渋谷アップリンク、六本木シネマートほか全国順次公開

監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ
撮影:ニールス・ボルブリンカー、ステファン・クティー
録音:パトリック・ベッカー
編集:ギーゼラ・カストロナリ・イェンシュ
出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット
製作:ミラ・フィルム

(スイス、ドイツ/2009/ドイツ語、ロシア語/カラー、モノクロ/デジタル/93 分)

TRAILER