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『パラダイス:神』PARADISE: Faith

『神』を激しく敬うアンナ・マリアの悦びと悲哀

(承前)

2作目は、ヴァカンスに出かけたテレサから、妹のアンナ・マリアの物語『パラダイス:神』へと移る。

イエス・キリストの像が掲げられている薄暗い部屋。敬虔なカトリック教徒であるアンナ・マリアは手を合わせ、人々の不貞の罪に自らの身を犠牲として捧げることを告げると、自身に鞭を打ち始める。彼女は「セックスに憑かれた人々がいます。彼らを地獄から解放し、性欲から解放して下さい」とイエス・キリストに請う。もちろん、このとき彼女が言っているのは、姉テレサのことではないのだが…。ウィーンでレントゲン技師として働くアンナ・マリアは、夏の休暇に入ると、姉と同じようにヴァカンスに出かけるのではなく、移民が多く住む郊外へと出かけて行く。聖母マリア像を抱えて、一軒一軒訪ね歩き、改宗を勧めるためだ。自宅にひとりで暮らす彼女は、自らキーボードを惹きながら高らかに賛美歌を歌い、ときおり、自宅に仲間たちがやってきて祈祷会をする。それが、心から敬うイエス・キリストとともに慎ましやかに暮らすことが彼女の悦びだ。祈りを捧げ、犠牲を捧げるために自身の体に苦痛を与える。そして、改宗を促す訪問を繰り返す、訪問先で、信仰心を無下に扱われたり、追い返されたりしても。淡々と、厳格に信仰に従い、生活と送るアンナ・マリアは、若干敬虔すぎるように感じられるが、大きな問題ないように思える。

しかし、ある日、外から戻ると自宅には、車椅子の乗った男がいた。イスラム教徒特有の帽子をかぶったその男は、2年前に出て行ったままの夫ナビルだった。なぜ、敬虔なカトリックのアンナ・マリアが、イスラム教徒の夫をもっているのか?もしくは、夫が出て行った後に、アンナ・マリアは、敬虔な信者になっていったのだろうか?そういった疑問を胸に抱かせながらも、夫の登場によって、彼女のイエス・キリストとともに充足していた生活(それは彼女にとっての“楽園”だったのだろうか、それとも“楽園”を目指すために生活だったのだろうか)は、次第に狂いはじめていく。

以前と変わらぬ生活を送ろうとするアンナ・マリアに、近づき、擦り寄ろうとしてくる夫を彼女は邪険に突き放す。彼女にとっては、キリストへの信仰を裏切ることや、冒頭に宣言した通り性欲は地獄へと繋がる罪なのだ。しかし、夫とって、彼女がキリストに対して心酔している姿は、狂信的にも見えるだろう。彼女に触ることすら許されるない、自分を近づけさせないために自室に鍵をかけ祈り、賛美歌を歌う(勝手に出て行ってそれはないのだが。とは言っても夫が出て行った理由は明らかではないので、なんとも言えないのだが…)状況に怒りを爆発させ、アンナ・マリアがいない間に、車椅子をこいで、杖をつかって家のなかにある十字架やキリスト像を外して行く。それでも、追い出すこともできずにいるアンナ・マリアの心の中は、きっと様々な葛藤で引き裂かれているのかもしれない。それとともに、彼女はさらに信仰心を強める。彼女にとって、身体を抑圧し、そして苦痛に捧げることが、信仰の表れだったはずなのに、次第に、次第にどこか歪んでくる。いや、むしろ過激になっていくと言うべきか。その結果、アンナ・マリアがキリスト像(彼女にとっては像ではなくキリストそのもののはずだが)に対して行う、相反するふたつの行為には、息をのむ。

アンナ・マリアが見る社会は、欲にまみれ、穢らわしい世界に見えているのだろう。そんな世界から切り離された、信仰のなかに生きていた彼女も、次第にどこかで閉じ込められていくようで、社会とは別のカタチで抑圧されているようにすら感じてしまう。夫が表れなかったら、彼女の生活は変わりなく、信仰の悦びに満ちていたのだろうか。アンナ・マリアの夫を肯定する意味では全くないのだが、車椅子で外に出ることも出来ずに、家のベランダで外を眺める彼を背後から撮ったショットが印象的だ。視線の先には、まばゆいばかりの緑の葉が茂った木々が一面に覆いつくし、それは光に溢れ美しい。アンナ・マリアが暮らす自宅の薄暗さと対照的にも思える。

『パラダイス:希望』につづく


Reviewer : yuki takeuchi

ABOUT THIS FILM

2月22日(土)よりユーロスペースほか、全国順次ロードショー

出演:マリア・ホーフステッター、ナビル・サレー
監督:ウルリヒ・ザイドル

(2012年/オーストリア・ドイツ・フランス/カラー/1:1.85/DCP/113分)

配給:ユーロスペース

2012年ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞

公式Facebook https://www.facebook.com/paradise3.jp

公式Twitter @paradise3LFH

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