ウィンターボトム=「冬の底」。なんて素敵な名前だろう。僕はもちろん彼の作品が好きなんだけど、何で好きかを深く考えたことがなかったりする。で、どう書きはじめようかといったん頭を空にしてみたら、「ひょっとして、この監督の“名前”が、なによりも好きなのかも」と思い至ってしまった。名前惚れってヤツだ。例えば前作『めぐり逢う大地』の、凍てついた雪に埋もれた山間の町の風景(『日蔭のふたり』のラストも寒かったけど)のような…‥しんしんと身体の芯まで寒さが忍び寄る感覚を思い起こさせる「冬」。その「冬」の「底」に立つ「天使長ミカエル」――ってな超常的な情景がパシっと浮かんだ。その天使の表情はよく見えないが、哀しんでいるようにも諦めているようにも見える。本来は陽気で楽天的な性格にも思える顔なのに。でも何かの覚悟の気配は読み取れて、現状を認めた上でスクっと背筋を伸ばして立っているような姿は、とても凛々しいような…‥。←って名前のイメージだけから妄想を逞しくして語り始めるなんてのは、凄いムチャなやり方なんだけど、さ。なんか彼の場合、作品の内容より、映画を観に来た客への「もてなしの仕方」が似通ってて、それは「ちょっといい感じ」としかうまく言えなくて、言うならばこんなイメージで語るべきようなもの、ではないかと思ったのだ。

いや、彼の作家性の分析とか、幅広いジャンル・作風にまたがる作品群の共通点(基本的には全て「恋愛映画」なのだけど)とか、そういうのを論じるのって、いくらでもできそうではある。でも彼に対してそういう行為はちょい不粋かもな、と少し躊躇してしまうのだ。コレって要するに恋愛の心理=「好きってのに理屈はいらない」気分なワケで、そうすると作品によって好きくない話でも「ま、いいか、雰囲気はいい感じじゃん」とか贔屓目に観てしまっていたりする危なさがある。アチコチのマイケル・ウィンターボトム監督作品への感想を読んでみたけど、「(監督の)視線が優しい」とか「いつもドライな、乾いた筆致を感じる」とかって評が多くて、それって正反対の感想?ドライで優しいって両立するのかなぁ…‥とか思いつつ、いや、それ以前にやはり映画の内容より「映画の感触」の方が観客にビビッとくるタイプの監督らしいってことに気がつく。つーと「スタイル」や「技法」の問題なのかっていうと、うーん、なんかそういうのとも違うんだよなぁ…‥。
マイケル・ウィンターボトム監督
(Michael Winterbottom)

1961年3月29日、舞台となったマンチェスターからそう遠くはないランカシャーのブラックバーンの生まれ。オックスフォードで英文学を学んだ後、ブリストル、ロンドンで映画制作を学び、テレビの世界へ。ロディ・ドイル脚本のテレビ・シリーズ『ファミリー』を演出して人気を博し、ライターズ・ギルドのシリアル・ドラマ賞などを受賞。その後、プロデューサー、アンドリュー・イートンと共にレヴォリューション・フィルムを設立して映画に移ってからは、新作の度に評判を呼ぶ人気監督に。今作で、これまでほとんど描かれて来なかったマンチェスターの音楽ムーヴメントをスクリーンに焼きつけた彼は、97年に『ウェルカム・トゥ・サラエボ』でカンヌ映画祭パルム・ドール賞を受賞し、99年の『ひかりのまち』ではブリティッシュ・インディペンデント・フィルム・アワーズの最優秀映画賞を獲得している。その他の代表作には『バタフライ・キス』『ゴー・ナウ』『日蔭のふたり』『あなたが欲しい』『いつまでも二人で』。

→略歴と劇場映画作品コメント
『24アワー・パーティ・ピープル』や『ウェルカム・トゥ・サラエボ』は実話をもとにしたものだけど、「これが事実の重みなのじゃ」ってな押しつけはなくって、適度なおかしみやルーズさのある空気感に、実は観ていてくつろげさえするところもある。あるいは『日蔭のふたり』や『めぐり逢う大地』は文豪ハーディ原作の文芸大作だけど、純文学の滑稽な程のシリアスさからは自由な感じがある。『バタフライ・キス』や『アイ・ウォント・ユー』なんてのは「殺人」をめぐるサスペンス・ドラマでヒリヒリする焦燥を抱えるキャラクターがいるにも関わらず、どこか呑気な空気も漂ってて、宣伝用に「サイコ・サスペンス」とか「エロチック・サスペンス」とかジャンル名をつけられると、やっぱりどこか苦笑しちゃうようなハズしてる感が生じる。そして『GO NOW』『いつまでも二人で』『ひかりのまち』が庶民の普通の生活を、時に楽しく、時には苦し気に描写していくのを観て、僕らは(僕は)妙な「連帯感」さえ抱いてしまうし、でも同時に「彼らになり代わってはやれない」という諦めに似た少し醒めた「距離」が、適度に保たれていることにも気づいたりする。――こういう感触を、ズバリ何と言うのか? 「優しい」と言うと甘過ぎるような、「ドライ」と言えば確かにそうだが乾き過ぎてはいない、この映像と音楽の「肌触り」。その独特の癖になる感触を、うまく言えない。

ただ、冬の底に立っている者の、凛としたユーモアというか明るい覚悟というか、そんな「気配」がある。その者が仮に天使だとして、彼が見つめるダメダメな人達や非運な人々、楽天的に転がる連中や社会からハミ出してしまう「孤児」までも含む人間達は、自分達がじっくり見つめられ、観察されている気配を、感じてはいるのかもしれない。でも、その視線は彼らを鋭く責めているものでも、逆に今にも手を差し伸べようと甘やかすように見守っているのでもない。確かに傍観者の視線ではあるのだが、盗み見の不快さはあんまりない(というか盗み見しているのは僕ら観客だったりする?)。逆に、見ていてもらって、まんざらでもない気分になるような、そんな感触の視線なのだ。いや、世界中の古今の映画の中には、声高に主張する必要のある視線も、絶望的な視線も、暴力的なのもファンキーなのも、シニカルなのも甘美でナルシスティックなのも、訳知り顔の視線なんてのもあるし、それぞれの美点も悪い所もあるから、何も「彼」の視線だけが正しいってわけじゃあない。でも、そういうのもあるってことの、何とも言えない安心感が、マイケル・ウィンターボトム監督の映画を観ている時の感触、肌触りに、一番近いような気がするのだ。そういうわけで、僕は彼の名前と彼の作品が、わりと好きだったりするのである。

Text:梶浦秀麿


[もう少しまともな論考を書け!という人には…‥]
――マイケル・ウィンターボトム監督についてのささやかな論考、続。あるいは蛇足ないしゴタク?





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