…‥なんて、リリカルに短く終わっておくのも手なんだけど。潔くない僕は、実はもっといろいろ考えてたりしてたのだった。マイケル・ウィンターボトム監督の作品について、もうちょっと具体的に考えてみたのが、以下の「蛇足ないしゴタク」である。映像スタイルとか頻出するモチーフとかをアレコレひねくり回したものなんだけど、メイン・コラム(エッセイ?)のようなイメージ感想では物足りないって人は、ちょっと読んでみて欲しい。ま、でも明確な結論があるわけでもない「ノート」のようなものなので、御期待には添えないかもしれないけど、もはやこれは僕の自己満足なので、カンベンして欲しい。
さて。彼の映像スタイルでいうなら、ドキュメンタリー映画の手法ってのが、彼の根っこにありそうだ。敢えて「荒れた映像」を挿入したり、手持ちカメラのブレを愉しんだり、ほとんどの映画で一部にモノクロ映像を使う癖とかは、確かにある。

[1]「荒れてブレた映像」は『アイ・ウォント・ユー』の少年ホンダの視点になったりもするし、事態の混乱のライブ感覚を表現したり、『ひかりのまち』では「夜の街」の主観的リアリティ(その街にいるかのような臨場感)を表したりもする。

[2]「モノクロ映像」は例えば『バタフライ・キス』の枠としてミーことミリアムの証言フィルム・サイドを受け持たせたり、『GO NOW』の「笑える瞬間」のスナップ写真パートとしてコメントを付して切り取るアクセントの役割をしたり、もちろんニュース・フィルム調に使われたり、『日蔭のふたり』冒頭のように過去=主人公の少年時代のシーンを表したりする。

そういう手法を、ヌーヴェルヴァーグ(ゴダ某)みたいに「これ見よがし」に使うのでも、ドグマ95(ラース・フォン・トリアーらが主唱)流の「原点回帰」でも、ケン・ローチら同じ英国新世代に垣間見られる「労働者階級的テーゼ」とも微かに違う、さりげないシレッとしたカタチで導入するのが、マイケル・ウィンターボトムの作風かもしれない。だから実話をベースにした『ウェルカム・トゥ・サラエボ』や『24アワー・パーティ・ピープル』では特に、その自家薬籠中ってな感じのフェイク・ドキュメンタリー手法が冴え渡るのだ、とは言えそうだ。

でもそれをことさら強調すると、例えば『めぐり逢う大地』の堂々としたストレートなフィクションの文芸大作然とした映像に戸惑ってしまったりもするワケで…‥。だからドキュメンタリー手法のみを云々するのではなく、実はあらゆる映画の技法に精通している職人なのだ――ってな評も生じる。「作品毎に映像のスタイルを変える」云々、「作品のテーマとスタイルが直結している」云々、「特定のスタイル=作家性にこだわらない」云々…‥。そんな感じ。まあ彼はどっちかっていうと量産タイプの監督になるだろうし、まだまだ若いのでいろんな可能性を試しているのかもしれない。でもそういう「職人」だと言い切れるほど「こだわりがなさそう」か?っていうと、またしてもハタ、と考え込んでしまう「何か」があるように思えるのだ。
何だろう? 「同時代的感性」? うん、まあその通り。何かがしっくりクる感じを言うには「同時代的感性」ってのが一番しっくりくるかもなぁ。
めげずに、もうちょっと考えてみよう。「感性」というなら、やはり映画を流れる時間感覚が、僕らにフイットするということかもしれない。『日蔭のふたり』『めぐり逢う大地』という文芸作品を題材にした2本を想起すると、何よりそのダイジェストの巧さに舌を巻くことになる。物語ることを急ぎ過ぎずに堂々とした品格は保ち、原作のエッセンスはきちっと踏まえ、でもエピソードを的確に取捨選択して2時間前後に納めるって能力が、彼にはある。地味ではあるかもしれない。年配の人なら、もっとエモーショナルに盛り上げ(音楽も派手にして)、「こここそが見どころだ!」ってなシーンをスペクタクルに作るかも、と思ったりする場面でも、非常に禁欲的に演出しているような気がする。その場合、派手さの代わりに、カットの切り替わりのリズムが事の重大さを匂わせる演出となる。あと、妙にセックス描写にこだわったりはするが、全体的にクール(ドライ?)な視線を感じるので、気負いなく観ることはできる。

嫌いな人は「ルーズな、タルい展開」とか言いそうな危うさも無いではないけど、この時間編集のそつのなさが、とりあえず僕なんかにはしっくりくるワケだ。時間や場所が飛ぶ時の、あっけない程のシレっとした繋ぎ方が、その前後に独特のリズムがあるので格好よく感じるのかもしれない。例えば、シーンつなぎの実験では一番野心的な『ひかりのまち』ですら、小津でいう「ピローショット」にあたる「街の夜景」の数々でソフィスケートされてて、コアのストーリーが明解にわかんなくてもいいやって気分を醸し出しもする。この映画は、ぶっちゃければ「老夫婦とその三人の娘と家出してる息子」のファミリー劇で、6人の私生活風景が順繰りに描かれていくのだが、特に最初の方ではこの家出息子のシーンとかが腑に落ちないまま話が進むので、個人的には「実験的過ぎ」とも思う(あと、男どもが揃ってシャイで情けないor横暴だったりするのもヤなんだけど)。でもたぶん『ひかりのまち』では母と三人娘の気持ちこそが探究されていて、故により女性心理に寄り添ってみる――ってのが監督の意図だろうから、この話(各エピソード)の飛び方自体が「女性的」なのかも(とか考えちゃうのは、僕の女性観=過去の経験からくる個人的偏見かも)しれない。
ちょっと触れたけど、セックス描写のあからさまさってのも彼の作品に顕著だ。例えば『日蔭のふたり』でケイト・ウィンスレットの血まみれ出産シーン(『ひかりのまち』の出産シーンの方がリアルだが)を、さりげなく一枚の絵みたいにモロ見えカットにする感覚には、ちょっとドキッとさせられるのだ。あるいは「ラブコメディ」とされる『いつまでも二人で』でも、子づくりに励むシーンが念入りに冒頭で撮られて、中盤でも激しいファック・シーンがあったりする。僕は『アイ・ウォント・ユー』で特に意識したんだけど、肌に寄り添うように極端な接写になる癖も、彼の作品にはある。ま、要するにどの作品も、たぶんお茶の間で家族揃ってTVで観てたりすると、気まずくなりそうなベッド・シーンがあるってことだ。というかTV放映しにくいかもなぁってのが多い。でももちろんそれは愛の具体的表現だし、男女間の心理やコミュニケーションの機微を的確に示す場面でもあるから、削っちゃうと意味がない。『GO NOW』だって前半の濃厚な愛の営みがあるからこそ、後半の「できなくなってしまう」絶望や、それでコミュニケーションがうまくいかなくなる感じが、強烈な落差として観客に伝わるのだから…‥。

というワケで、ここらへんも特徴といえばそうなんだが、これを誇大視するのも、何だかまずい。屁理屈こねて、TVマン出身にアリガチな「放送コードへのフラストレーションの爆発」なんて穿った意地悪な見方とか、あるいは「女性人気が高いらしいのは女性向けAVの役割を果たしてるから」なんて奇説を唱えるのも下品だしなぁ。ま、逃げないリアル志向の現れ、くらいは言い切れるだろう。性愛も含んだ普通の人間のリアルな営みを、いかに隠すことなく見せるか? そこに賭けてもいるのだ、たぶん彼は。
ウィンターボトム映画に多く登場する性愛シーンには、男女の気持ちいい親密感や、映画の調子を整えるファニーな感覚や、あるいはいろんな感情表現を代替する効果なんてのが、あると思う。だからエロティックさが強調されるわけではなく(そう感じるのは観客の自由ってそぶりで)、必要以上に扇情的なことはない。実はかなり即物的な見せ方に徹している場合すらある。誰もがするコミュニケーション行為のひとつ、みたいな。だから理想化され過ぎた夢のようなセックス・シーンなんて映画的なものではなく、ヘア解禁前のラブシーンに慣れた年配の人からは「なんだか汚い」と悪口も出そうな直截さもあったりする(特に出産シーンなんかの観せ方とかに顕著か)。そういうのが彼の映画の「リアルさ」なんだけど、それは「労働者階級」映画にシフトして元気になったケン・ローチやダニー・ボイル、ガイ・リッチーなどイギリス映画新世代が、庶民や底辺生活者の暮らしを赤裸々に描こうとするのにも似ている。そう、ウィンターボトム映画に多く登場する人々もまた、エリートでも上流階級でもないワーキング・クラスの庶民達だったり、そこからハミ出た犯罪者だったりするのだ。裕福な勝ち組や上品な連中には「汚い」と言われそうな庶民の暮らしを、リアルに「荒れてブレた画像」が捉える感覚。でもそれは「上から」観察するような視線でもなく、また声高にワーキング・クラスの誇りを主張するものでもない。ただ捉えられ、すくいとられた生活の細部が、画面の隅々にある。いや、これを強調し過ぎるのもまた、ズレてしまう気がする。そうしたリアルな生活感を本気で描き出せば、冗長な「貧乏一家奮戦記」なんてのにしかならないのではないか、とも思うし。ということは庶民派なリアル志向はどこかでうまく折り合いがつけられて、先述した時間編集の卓越した能力が、バランスよく発揮されて映画作品として成立するものに変化させられているのだろう。この絶妙のバランスが、彼の作風を地味ながら独特なものにしていて、僕らはそこに「いごこちのよい感触」を得ているのかもしれない。
で、適度なドキュメンタリー感覚と気負いのない時間編集テクニックをひとまず彼の「ワザ」として、何を描いても同じ人間味を感じる何か、例え登場人物がドラマチックな事件や悲劇的運命的事態に巻き込まれていようとも「普通の人々の普通の愛」に見えてしまう、彼ら彼女らも僕らと同じ、って感じるような独特の話法が見えてくる(それこそ「裸になれば地位も階級も優劣も美醜も関係ない」って人間観のような)。

そこから結論部として、“基本的には彼の作品は全て「恋愛映画」だ”――ってな話に突入したい。んだけど…‥。ううむ、やっぱり野暮臭いなぁ、ワザワザそういうこと書くのって。と、ちょい気乗りがしない。「よりリアルな恋愛映画だ」…とか、「地に足の着いた恋愛映画だ」…とか? うーむ。肝心な話なんだけど、こういうのは「言わずが華」、って気分になってしまった。それでも敢えて(少しだけ)言葉にしてみるなら…‥。

『GO NOW』はズバリ愛を誓う=結婚する真の意味はこう(であって欲しい)っていう一生ものの恋愛賛歌だし、『バタフライ・キス』は女同士の愛にして神様の愛情確認(「神は私を愛しているのか?」を問うマゾヒズム)でさえあり、相手の魂の救済のために殺してあげる(!)という究極の愛の描写でもあった。

『日蔭のふたり』は、自由恋愛が許されない頃の自由な婚外婚の悲劇であり、そのことから帰結したある事件に直面して、「新時代の女」志望のバカ女は「神に罰せられた」と改心して悔いることになり、対して神に抗して永遠の愛を叫ぶ独学者(つまり誰にも頼らずに自力で愛と信仰と人類について探究し続けた男)は孤独に立ちすくむ。

『ウェルカム・トゥ・サラエボ』は無力な人類へのささやかな愛、内戦の悲劇を安全地帯から批評するのではなく、ただ愚かな人類をいかに愛するかの実践例を、「サラエボ」とそこから救い出した「養女」への愛として描くものだった。

『アイ・ウォント・ユー』もまた報われぬ愛の姿が、テーマ曲の「渇愛」表現によって彩られる。マザコン少年の苦い初恋(恋敵を盗聴で撃退し、見返りの要らない愛情表現を表明した挙げ句「共犯者」にさせられてしまう)や、愛のために二度犠牲となる(14歳の少女に恋して一生を台無しにした挙げ句、9年後にその一生さえも奪われてしまう)男の無惨を招くのは、「女」という生き物が本質的に魔性の誘惑者だからなのか、それとも男どもの勝手な思い入れ=ファンタジーで「自己犠牲」なんて余計なお節介を「愛の証」としようとすることが、最初からナルシスティックな勘違いなのか? 『バタフライ・キス』でミリアムは「こんなに尽くしてるのに!」と堪え性もなく口に出すのに、無口な尽くす男達は、こうしてバカを見るもの、なのかもしれない。
そして『いつまでも二人で』は不妊の悩みから愛が揺らぎ、妻はかつての文通相手のプラトニックな愛を、夫は昔のセックス・フレンドとの焼けぼっくいな愛を、それぞれ摘み食いして、でも「子はかすがい」ってな感じでひとまず元の鞘に納まるオチだった。本筋はアリガチなんだけど、子を成して初めて夫婦ってな世間の常識が、愛情とは別問題かもしれないという疑惑を匂わせるシニカルな視点も隠されていると思う。

それは『ひかりのまち』で複数の「愛の探し方」としてスケッチされることになる。これはチェーホフの『三人姉妹』のパロディで、100年前の零落した「ロシアの地主一家」の、さらに零落した姿として「ロンドン市民である労働者階級一家」をシビアに描いたもの――ってのは今思いついた奇説(笑)。いや、ちゃんと男兄弟も出てくるし、「幸せって何?」という素朴な探究(正確には「何のために生きているのか」「それがわかったらねぇ…‥」って幕切れの台詞とかで象徴されるんだけど)が映画のモチーフでもあるし…‥。さておき三姉妹の三者三様の愛の姿が『ひかりのまち』では描かれていく、というかそれぞれの元夫や現夫や近所の黒人店員クンも含めて六者六様というか、父母や弟とその彼女含めて10者10様、いやさらに伝言ダイヤル男数名や長姉の浮気相手や店員クンの母なんてもいたな…ってな感じで、様々な愛のカタチ(隣の移民一家の犬への愛も含めて)が、実はネガティヴな諦念を潜ませつつ、「もがき」としてスケッチされるのだ。

『めぐり逢う大地』では愛と権益(金や夢や名誉)の駆け引きが隠された発端だった。父と、彼に売り買いされた娘との間の愛憎があり、あるいは捨てられる愛人の野心があり、「愛」を捨てて全てを得、その全てを「愛」のために失う「王」の末路があった。それを目撃した若者の得るだろうささやかな愛も…‥。

最新作『24アワー・パーティ・ピープル』は、なにより地元愛にして自らの青春時代への愛なんだけど、群像劇として描かれるアーティスト達やその仕掛人達の恋愛事情のリアルな「うまくいかなさ」加減、でも「うまくいかない」のに恋愛してしまうのが人間だよな、現実だよな、ってな描きぶりが、いい感じの滋味を持っている。音楽を愛し、クスリを愛し(笑)、自らの才能を愛し憎み、そして人生をなんとか愛してみるって感じで、リアルで生な愛情表現が、ゴロゴロ転がってる感覚。「きれいごと」じゃない恋愛の、断片達。

「愛が、またしても愛が僕達を引き裂く」と、『新世紀エヴァンゲリオン』が25話'「Air/Love is destructive」で、じゃなかった、もといジョイ・ディヴィジョンが『ラブ・ウィル・ティア・アス・アパート』で歌ったように、「愛」ってのは耳触りのいい歌謡曲の決まり文句のようなものなんかでは決してなく、実は非常に厄介な代物だ。少女漫画みたいに、というか数多の恋愛もののように<いろいろあって→「好きだ」「うん私も」→めでたしめでたし>なんてのは、実は本物の恋愛なんかじゃない(一部ではあるけど)。敢えて野暮に言うならば、<この世界で生き残っていること=ひとまずめでたい→「好きだ(ヤりたい)」「ヘ?(ウソ、ウザいんだけどorこんな奴に好かれてしまう私って何?orなんか好きってよくわかんない)」→繰り返し>だったり、または<この世界で生き残っていること=ひとまずめでたい→(独りで生きて死ぬことへの)悶々とした感情の発生→いろいろあって→「好きだ」「好きよ」→いろいろあって、とりあえずヤる→んで、いろいろあって、本当に好きなのか?他者とつきあうって一体何なのか?ううややこしいことになったorまあ仕方ないかorめんどうくさいorダメだぁorダメなら別れりゃイイかor何か違う?orいや愛を貫かねばor責任とってよor腐れ縁かなぁor結婚って愛じゃない?or本当の幸せってこれ?もっと他にある?or…‥etc.→いったい愛しあうって何だろう、時々なら完璧にわかった気分(=最高に幸せな気分)になれるのになぁ…‥→されど人生はENDマークのでないまま続くor唐突に終わる>だったりするものが、本物の恋愛なのだ(たぶん)。あ、もちろん異性の人間に限らず、同性や異類や、「家族愛」や「人類愛」や「神様への愛」など抽象概念への愛なんかもある(中身は異性間の恋愛に似てしまったりもする)。どちらにしろ、それはハッピーエンドにしてもサッド・エンドにしても、小説や映画や物語にしてしまうと、どうしてもウソになる。でも「ウソになる」ことがわかった上で、いかに遍在する「愛」というあやふやな事象を的確に捉えるか、それが同時代の表現者達の「恋愛表現」の善し悪しを決める。で、「わかってる」人の表現は、「わかってるねえ」って感じで、肌で理解されるし、そうじゃないなら、よくできていても「理屈で割り切れる恋愛論」になってしまってたりするワケだ。ここんところが、実は言葉にするのが難しい「感触」なんだけど…‥。

ううむ、やっぱり野暮臭い。ワザワザ感アリアリで、書いてて恥ずかしくなってきた。ま、ウィンターボトム監督の作品は、(中略)そういうワケでみんな「恋愛映画」だと思うのだが、いかがなものか? これ以上の、作品内容の傾向からテーマ分析するみたいな作業は、やっぱり読んでる皆さんにお任せしちゃうことにして、個人的「蛇足ないしゴタク」ノートは終わろうと思う。あ、いちおう各作品への一言コメントは「略歴と劇場映画作品」のところで書いたので、それも参考にして皆さんにも考えて欲しい僕であった。

Text:梶浦秀麿





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