『アメリ』を観た後で『デリカテッセン』を見直してみたら……。

『アメリ』を観た。まずはその感想から。

『アメリ』を「観たい!」と思う人って、口コミとか「フランスで大人気ロング・ラン」ってな評判に釣られて観るのだろうか? それとも宣伝ポスターやチラシの「洒落た額縁やスタンドのある赤いベッドルームで、アルバムを捲る女性(アメリ)+寝てる猫つき」のヴィジュアルにピンときて? 確かにこのポップなイコン(聖画)めいた“画”には僕もピンときた口なんだけど、やはり「観てえっ!」って思う一番の動機となったのは監督名だった。ジャン=ピエール・ジュネ----『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のジュネ&キャロの片割れ、そして『エイリアン4』のジュネだ! なんだか「久しぶりじゃん」って、4年ぶりの旧友に街でばったり出会った気分。そこにはでも、ちょっと厄介な感覚も微妙に混じってる。

というのも、彼の作品にあるオタクな雰囲気が個人的には大好きなんだけど、そこを突き詰めてみると、“歪んだもの”への偏愛という淫靡な嗜好に辿り着いちゃうかもしれず、健康的な普通の人達(日焼けした肌に白い歯をキラッと輝かせ、映画なんてめったに観ないで、アウトドアな休日を過ごすってなイメージが浮かんでるんだけど)にはオススメしにくい要素があるから、というのがまずある。しかも長編3作目はハリウッドに乗り込んで職人芸でこなした『エイリアン4』で、このジュネっぽいけどジュネじゃないよなぁって娯楽アクションSFにちょっと哀しくなり(でも<エイリアン>シリーズの中では『3』よりマシ、方向性は違うけど『2』に匹敵する出来かなぁと自らを慰めたり)、哀しいといえば、それまで共同監督してきたマルク・キャロが参加していないのも寂しく思ったり。本作もジュネの単独監督で、キャロの名はどこにもない……となると、好きなバンドが解散してリーダーがソロ・デビューした時のような「ビミョーさ」がある。厄介な感情の内訳ってのは、まぁそんな感じだ。だから、ちとギコチない気分で対面したのだ。

で。観終わって、「か、可愛い。なんてキュートなお話! しかも歪んだハッピーさが素敵!」と大満足してしまった。例の“歪み”の何ともほがらかな肯定、というか「恋愛」を大義名分にすれば、少々歪んだ人達の話でも万人にアピールできることを見事に証明してくれた、というか……。いや、映画『アメリ』は「まわりの人をちょっぴり幸せにする趣味・嗜好・悪戯のアレコレ」をたくさん並べて描いたもの、とも言えるんだけど、ここで僕が個人的に気にしていたのは、ジュネ(&キャロ)映画の本質にある“毒気”の行方だったので、その処理方法として「ラブリーな恋愛事件」を前面に打ち出しているのに嬉しい驚きがあったのだ。「この手があったか!」と膝を打ってしまう感じである。

『アメリ』の主筋となってるのは、まるで正統派の少女漫画である。ダメ系の私(ヒロイン)でも「そのままの君が好きだ」って言ってくれるBFと素敵な恋愛ができた----なんて黄金パターンがあるとして、それをちょっとだけズラしてあるイマ風の少女漫画のガール・ミーツ・ボーイ話なのだ。ま、オドレイ・トトゥ演じる主人公アメリは、癖のあるルックスだけど美人は美人で、一見ダメ系じゃないってヒロインなんだけど、コレってズラすというより少女漫画の王道的技法(本人はダメ系と思い込んでるけど、絵柄では美少女だったり可愛かったりするという漫画的処理だ)。また、お相手となるBFも、ハンサムだけどダメ系かもって優男ニノ(マチュー・カソッヴィツ)だ。太古の(笑)少女漫画の、スポーツ万能とか成績優秀とかリーダーシップがあるとかって「素敵なBFの理想型」はもはや死滅していて、次の潮流の「不良系だけど自分には優しいカレ」なんてのが少女漫画の王道だとして、今は映画のニノみたいな「ヘンな彼」なんてのは、ズラすというほどでもないのかも知れない。でもサスガに「ポルノショップで働いてて、お化け屋敷では骸骨のレオタード着て客に触る男が好き」(笑)ってのはちょっと珍しいかもしれない。つまりヒロインは、彼のパッと見の印象と趣味(ヘンなトコ)に直観的に惚れるのだろう。それから「いわゆる告白までウジウジし続ける」って長編少女漫画によくある展開がある。これも「凝った遊び心のある謎かけゲーム」仕立てになってるので、その「ウジウジ感」が薄まっているんだけど、よく考えると王道パターンだ。さらにクライマックス前に「彼が別の女の子と一緒にいて、ガ〜ン!」ってのはもう完璧なラブコメ漫画って感じ。

と、こうしてみると主筋は何だかウェルメイド過ぎる筋立てなのだ。つまりこの少女漫画戦法で、持ち味である“歪み”の暗い感じを、うまく消臭してるワケだ。そして逆に言えば、かようにたわいのないラブコメを骨組みとすることで、実は結構ヘヴィで過激な「遊び」を大量に詰め込むことが可能になったのだ。つまり、この映画のメインディッシュは、テーブルに山のように用意された食べきれないほどの「遊び」、なのである。

悪戯、謎掛け、パズル、探検ごっこに探偵ごっこ、鬼ごっこに隠れんぼ、スパイごっこに怪傑ヒーローごっこ、手品遊びに見立て遊び……この映画にはそうした“子供心あふれる遊び”が充満している。稚気って言ってもいい。まず原初的な「感触の愉しみ」の遊びがある。クレームブリュレのパリっとした表面を割って感じる柔らかいその下の感触、豆袋に手を入れた時のゾワゾワモゾモゾ感、プチプチ(ビニールの梱包材)を潰す感触、葉っぱに切符切り鋏を入れる思い出すような感覚、湯気の立つローストチキンを切り分ける時のナイフの独特の手応え、その幸福感! ------それらはスキンシップの肌触りや骨を鳴らす気持ちの良さとも通じる、ひどく幼児的なところもある快感のコレクションだ。手触り、触覚の「気持ちよさ」の列挙に、大人な観客は懐かしさと密やかな愉しみの共有とを感じるはずだ。もちろんおおっぴらに「好き」って言えば子供っぽいと思われがちな類の嗜好だから、「密やかな」と注意書きがつくんだけれど……。そして小石だとか捨てられた写真だとか、「道端のゴミのようなものを拾う」遊びってのも子供が大好きなことであり、すぐ躾けられ、大人になるとやっちゃいけない行為とされるもの。ただキラキラ光るだけの小石を拾って、ビー玉などと一緒に自分の宝箱に入れておいて、大人になってみるとそのことが恥ずかしくも懐かしいって感覚を、僕らは映画を観て感じるのだろう。「まわりの人をちょっぴり幸せにする趣味・嗜好・悪戯のアレコレ」ってのは、つまるところ観客の“子供心”に訴える感覚の陳列棚ってことなのだ。それは健全な大人には普段、公的な場所では許されていない快感なので、悪徳めいた愉しみとなる。僕がつい“歪み”だとか言っちゃう「ジュネ(&キャロ)らしさ」ってのは、そういう要素なのである。それを大っぴらにやる彼(ら)には、だから戦略が必要になるのだ。

この映画に妙に贅沢な味わいがあるのは、そうした歪みを含んだ大量のエピソード、多彩なサブ・ストーリーをムチャクチャ過剰に詰め込んで、物語のスケール感を錯覚させ、フンワリとした広がりを持たせた上で、でもささやかな個人の恋愛事件をメインにしているという構成上の秘密が隠されているからである。少女時代のアメリの空想を冒頭でギュッと圧縮して語り倒し、しかもひとつひとつのエピソードが繊細に扱われる。そのまま大人になったアメリのお話へとスライドして、映画内世界そのものが「子供の空想」のトーンを維持していく。周囲の人々の人生の断片をも大量に挟み込んで一般論のように体裁を整えるけれど、基調に「空想」のトーンがあるのでファンタスティックな感覚が全てを浸食したまま、僕らはそれらを受け入れてしまう。さらに普遍的な寓話めいた「語り(ナレーション)」の魔術で、その“世界”をしっかり成立させてしまうのだ。だから、中には際どい悪趣味ギャグもあるし、アチコチにヘンテコなギミックがあるのに、観る方は主筋や語り口のホノボノ感に導かれて、映画全体の印象をキュートでハッピーなものとして受けとめることができる。まさに「この手があったか!」って感じなのだ。

と、どうもイジワルな分析口調になってしまってる。とにかくまずホワワ〜ンとした幸福感がある映画なので、その中の「ジュネ(&キャロ)らしさ」を読み解こうとすると、ついイヤな深読み風になるのだ。けど、何となくは言いたいことはわかってもらえたのではないだろうか。さて。戦略としてのメイン・モチーフとなった「愛」についてだけど、アメリとニノの「恋愛」事件を中心にしつつ、それだけじゃないってのも押さえておこう。アメリと父、宝箱のB氏と娘(と孫リュカ)で「親子愛」を(しかも「父と娘」という黄金パターン)カバーしてるのはまず見易い。で、小説家イポリトには壁の落書きを用意し、マドレーヌ未亡人には亡き夫からの手紙を用意するなど、「独り身向けのささやかな愛」もある。そしてガラス男はリシュアンと「友愛」を深め、ジョルジェットとジョゼフは「インスタントな愛」(笑)を得てカフェを振動させ……という具合。こうして「愛が全てさ」ってなライフスタイル提案を全篇に散りばめてるのが、この映画の強みであり、そして毒気でもあるのだ。

毒気? 考えてみれば、『デリカテッセン』も人喰いマンションにやってきた青年ルイゾンと、首謀者の精肉屋の娘ジュリーとのラブ・ストーリーだ。『ロスト・チルドレン』の怪力男ワンと窃盗団の少女ミエットの間にあったのも「愛」だと思う。物語を起動させ、転がし、ひとまず締めくくる道具として、この「愛の発生と展開と成就」ほどおさまりのいいものはないのだ。でもそれを「道具」とか「おさまりがいい」なんてあからさまに言うと、神経を疑われる。不粋って怒られるかもしれない。だから僕らは物語の中の恋愛を、つい「そのもの」として見てしまうんだけど、ジュネ(&キャロ)映画には、実はもう少し突き放した視線が存在するような気がするのだ。だから劇中で描かれるラブリーな光景のそれぞれには、よくよく考えるとヒヤッとするような微かな毒気が潜んでいるように思う。のだけど、はてさて、その稚気にも似た毒気にこそ惹かれてしまう僕って、ちょっと穿った観方をし過ぎてるのかも……。

というワケで『デリカテッセン』を観直してみた。

で、ミルクマン斉藤&プチグラ伊藤のTVブロス連載『試写室に火をつけろ!』を読んだ。

「伊藤:ハッピーなパワーで押しきっちゃう『アメリ』。楽しくてキュートなコダワリがジュネ本来のキャラだとは意外だけど素敵で。/斉藤:でも結構ヘンだぜ、コレ。ギャグは客観的で冷笑に近いし、登場人物は病んでるし、情報量の多さは破壊的。基本的には以前とちっとも変わってない。でありながら印象が何故か柔らかなのは、やはりキャロの不在とオドレイ・トトゥの圧倒的な魅力だろうね」(TVブロス23[11/10-23]号掲載分より)

なるほど。「結構ヘンだぜ、コレ。ギャグは客観的で冷笑に近いし、登場人物は病んでるし」って部分について、僕はそれを擁護(?)しようと書いてきてたみたいだ。その「ちっとも変わってない」部分を再確認しようと、ビデオで長編デビュー作『デリカテッセン』を観直してみたのだった。久しぶりなのですっかり内容を忘れてる。暗い画面の感じと、何かコッテリ面白い、漫画みたいなシニカルな笑いのテンコ盛りって印象は残ってたんだけど……。ん? なんかところどころよくわからないゾ。結構情報量が多いのにさりげなく提示してあって、しかも説明台詞は最小限に抑えられてるので、劇場で観た当時は、細部を気にせずに面白がってたのだろう。「最終戦争後15年」ってな背景設定は映画自体には具体的には出てきてないようでビックリした。あ、テーマ音楽を聴いて、すぐさま深夜TVで山田五郎のやってた『奇妙な果実』を思い出してしまった(洋画の中の奇妙な日本や日本人をメインに紹介する小コーナーで、海外のお菓子や電化製品のヘンな日本語もどきも紹介してたな。番組名は『週刊地球TV』だったか?)。これは余談である。

さて。物語は最終戦争後のパリ郊外、1階にデリカテッセン(精肉店)の入ったアパルトメン(アパート)が舞台になっている。戦後の食糧不足で、豆などの穀物類が貨幣の代わりになっているって背景がまずある。で、このデリでは、バイト募集に応じてきた人間を店主が殺して、その肉をアパートの住民で分け合って食べることで飢えをしのいできたらしい。そこに元ピエロの青年がやってきて、店主の娘が彼に惚れて……ってな展開だ。この時代、菜食主義者は地下に潜っていて、地底人(トログロディスト)と呼ばれる反体制組織となっているようだ。で、前半はアパートの個性的な住民達の姿をコミカルに描いてゆき、後半は地底人も絡んでドタバタになって、クライマックスでは『未来少年コナン』のような水中キス・シーンまで飛び出して……。最後はめでたしめでたし、なのかよくわからん余韻を残して終わるのだった。

10年前の公開当時、映画館で2回程観た覚えがあるんだけど、今回ビデオでは初めて観たので、細かいギャグなどをメモにとってみた。とにかく一見して複雑な凝った展開で、ギャグが全編を埋め尽くしているので、背景設定などの台詞部分をチェックしたくなったのだ。そこで、「ん? このアパートってどういう構造なの?」という疑問がムクムク生じてきた。もう一度、丁寧に見直してみる。ううむ。わからん。まず登場人物を整理してみよう。アパートの住民はおそらく全部で8組。1階はお店だとして2階以上に各階2部屋、計8部屋ある5階建てのアパートだ。映像のみをヒントにして、8組をパズルみたいに各部屋に当てはめたくなってきた。場面場面をチェックして、いろいろ試行錯誤の末にできたのが、こんな感じの「構造図」である。

屋上…TVアンテナ/天窓
5階…ジュリー/ポタン氏
4階…ルイゾン/キューブ兄弟
3階…タピオカ家/アンテリガトゥール夫妻
2階…プリュス/店主クラペ
1階…お店「デリカテッセン」


主人公の青年ルイゾン(ドミニク・ピノン)は4階左側に下宿する。その上には「デリカテッセン」の店主の娘、ジュリー・クラペ(マリー・ロール・ドウニャ)の部屋がある。使ってない配管で繋がっていて、鍵を落としたり、伝声管がわりに使用される。ジュリーの父、実はこの映画の顔と言うべきクラペ(ジャン=クロード・ドレフュス)は、普段は1階のお店にいるけど、おそらく2階右側に住んでいるようだ。この3人がメインのキャラクターとなる。でも、映画は他の住民の狂態を、細かく描いてゆくのだ。

ロベール(リュフュス)とロジェ(ジャック・マトゥ)のキューブ兄弟は、ルイゾンのお隣さん。モーモー鳴く牛の声の缶詰型オモチャを内職し作っている(でも作り方は本当はこうじゃないと思うんだけど……)。ロベールは階下のオーロール・アンテリガトゥール夫人(シルヴィー・ラギュナ)に惚れている。ロジェはトイレの配管を使ってオーロールに死神の声を聴かせ続けている。ドア番号は「3」。そして天井から雨漏りしてる。何故かというと、階上5階のカエル男、ポタン氏(ハワード・ヴァーノン)が床を水浸しにして、カエルとカタツムリを(食用に)飼っているからだ。ポタン氏はよく大音量で交響曲(ナチスのレコードだとか)を聴く。

そして大家族のタピオカ家は3階左側に住んでいる。編み物好きで、よく徘徊するので空き缶をつけられてるお婆ちゃん(エディット・ケール)、蚤の亭主めいたマルセル・タピオカ(ティッキー・オルガド)、その太っちょの妻(アンヌ=マリー・ピザニ)、そして2人の悪ガキ、リュシアン(ミカエル・トッド)とレミ(ボバン・ジャネヴスキー)の5人家族だ(途中で4人家族になる)。ジュリーへのお菓子の小包の争奪戦は、この部屋の前で行われる。ルイゾンの部屋のバスルームの床が抜けるクライマックス・シーンの舞台にもなる。

マドモアゼル・プリュス(カリン・ヴィアール)の部屋は2階の左側。タピオカ家の悪ガキが階下の彼女の窓に干してある下着を釣ろうとするシーンがある。プリュスは店主クラペの愛人で、ベッドが軋むのでルイゾンが修理に呼ばれるのだが、そのベッドルームでガツンとトンカチを壁にぶつけると、ちょうど感電自殺しようとしていたオーロールの浴室のコンセントが抜けてしまう。斜め上の部屋なのに……。で、度重なる自殺失敗にキレたオーロールが、窓からミシンやゴルフクラブを放り投げるシーンがあって、その時に部屋が3階右側だとわかる。この劇中3度目の自殺未遂でガスが爆発して、屋上にいたクラペが落っこちて地底人を発見するってシーンがあるんだけど、その後「アンテリガトゥールが天井を吹き飛ばした!」ってキューブ兄弟の片割れ(たぶん)が叫ぶので、キューブ兄弟の部屋の床が抜けたってことだ。この自殺願望の妻を持って困惑顔の夫ジョルジュ(ジャン=フランソワ・ペリエ)は、おっとりした紳士である。

登場人物はこの他に、ジュリーに惚れてるバイク郵便屋(チック・オルテガ)がいる。そして「地底人」のロルス、ジャンビエ、ロラン、トルヌル、ミラン、パンク、フォックス、ラップ、ポモー計9名(表記はビデオ字幕。後で発掘したプログラムによるとジャンビエ→ジャンヴィエ、トルヌル→トルヌール、ロラン→ブレラン、ラップ→トラップが正式名らしい。あれ? 10名いる! ヴォルタンジュってのがもう一人いるようだけど、字幕になかったゾ。ちなみにフォックス役はマルク・キャロが演じてる)。

ついでに残りのキャラをみな書いちゃおう。ルイゾンを運んできた、故障しがちなタクシーの運転手(ドミニク・ザルディ)は、店主クラペに頭の不毛地帯をパリに街のそれと比較される----「草や木が生えてくるまでの辛抱だ」「この頭に生えてくるか?」。この会話で最終戦争後の世界観がうっすらと暗示されるのだ。そんで最初の犠牲者ウイ氏(パスカル・ベネゼク)ってのもいた。ルイゾンのピエロ時代のコンビ、「スタン&リビングストン」のリビングストン博士(クララ)も回想やTVの中に登場する。登場キャラは以上。

ちなみに、このデリカテッセンの住所は、クラペが郵便屋に頼んで出した新聞広告によると「番地129のB」、地底人の地図によると「第36区第5地点ジゴタン通り……4分の3区で69度北東……アルブミン広場」だそうだ。暇な人はパリ近郊の地図と睨めっこして推測してみよう!

で。このアパートの住民達の描写がひどく面白いんだけど、ビデオだと妙に画面が暗くて、チラっとだけ出てくるシーンなどでは、そこがどこなのか誰なのか見にくいのだ。映画はほとんどアパート内で展開されるので、なんとか推理パズルごっこの気分で、以上のように特定してみたのだった。この配置、後で発掘した当時のプログラムに載ってた図解(すっかり忘れてた)とはちょっと違うけど、たぶん僕の方が正しい(←偉そう)。

しかし、この映画の結末って、左側の2〜5階は吹き抜け状態で(ジュリーの部屋の床を地底人が爆破して網で助けるってのがあったので)、右側の3〜4階も抜けちゃってるワケで、無傷なのはプリュスとクラペ(部屋の主は無事じゃないけど)とポタン氏(もとから壊滅的って説もあるが)の3部屋だけなのね。最後に屋根の上で、チェロとノコギリでラブリーに合奏している場合じゃないような気もするのだが……(笑)。

と、いうワケで、『デリカテッセン』パズルで散々遊んでしまった。他にも、例えば、各部屋がダストシュートや配管でつながってるのを利用した遊びが劇中にはいっぱいあった。盗聴したり(クラペの店とルイゾンの部屋)、伝声管がわりに使ったり(ジュリーとルイゾンの部屋、キューブ兄弟とアンテリガトゥール夫妻の部屋)、鍵を運ぶ郵便チューブにしたり(ジュリーとルイゾンの部屋)ってのを図に描き込んでみるのも面白い(そうか、ルイゾンの前の住民、劇中最初の犠牲者ウイ氏は、逆にこのダストシュートで主人クラペの店の様子を盗聴してたのね……って今更気づいたり)。そういやプリュスのベッドでギシギシ音のリズムに、各部屋の住民のリズムが連動するギャグも、妙に丁寧なのが可笑しかった。ルイゾンの天井ペンキ塗りのリズム、ジュリーのチェロの調律、そしてメトロノームのリズム、タピオカ家の洗濯物叩き、自転車のタイヤの空気入れのリズム、お婆さんの編み物のリズム、キューブ兄弟の牛の鳴き声オモチャの穴開けと音叉のリズム……って、しつこい連動ギャグだ。コレに参加してないのはアンテリガトゥール夫妻とポタン氏だってことは……なんて余計な裏設定まで考え出してしまった。この音楽のリズムに合わせて行動しちゃうギャグは、TVから流れるハワイアンに合わせて、ルイゾンとプリュスがベッドに座って揺れるっていう繰り返しギャグにも使われてたっけ。こうなると、このベッドにこそ何かの魔力があるようにも思えてくるのが不気味におかしい。

そういやルイゾンの「三叉ブーメラン(ナイフ)」の移動を追っかけるのも面白いかもしれない。悪ガキのプリュスの下着釣りのくだりで初登場して、ジュリーを襲う郵便屋にシャンデリアを落とすのに活躍、その後、ルイゾンらがバスルームに籠城して「ドバーッ」てな時に、彼のアルバムなんかと一緒に流れるシーンがあって、間違えられて地下にいたプリュスがマンホールから出てきたところで、ポタン氏が「あなたはトンボ、私はカエル……」なんて唐突な愛の告白をした時に彼の手からプリュスに渡る。彼女はそれをクラペ親父に渡して、ルイゾンに戻ってきそうになってクラペに……ってな感じで、結構細かく描写されてるのだ。

……などなど、『デリカテッセン』を面白がる遊びに、つい熱中してしまったのだけど、なんか本題からハズれてるような気がする? 『アメリ』を観てから『デリカテッセン』を見直すと、どんな風に感じるかってのが発端だったっけ? うーん、最初はやっぱり画面の暗さを感じたんだけど、細かく見ていくと、「遊び心」、それも子供っぽい遊び心ってのはやはり共通してる。『アメリ』ではうまく隠されている毒気も、こちらは割とコミック感覚で強調されてるようにも思うけど、そんなに露骨じゃなくってさり気ない描かれ方だ(だからキワドイんだけど)。主要キャラの「恋愛」って側面だと、『デリカテッセン』の主役は美男美女ではないカップル。特に近眼のジュリーのコミカルさ=内気なお嬢さんみたいなのにドジで、実は猪突猛進タイプで、勘繰った嫉妬もするってコメディエンヌ調が強調されている。父親クラペが「またか」と言うように、やってくる男性にすぐ惚れちゃうらしい描写もある。対するルイゾンの方は「無害だけどやる時はやる男」程度の描写で、優しさだけが強調されてる感じだ……。そういう所を『アメリ』のカップルに置き換えて比較するってのも面白そうなんだけど、やっぱりそれは『アメリ』をみんなが観てからにしよう。

実は『アメリ』でも上記のような「パズル読み解きごっこ」をしてみたのだけど、ネタバレになっちゃうので公表を控えることにしたい(笑)。例えばノベライズの細かい日付や年齢が映画本編と違っていたりすること------特に主人公アメリの年齢は、プレスやいろんな雑誌資料をみても「22歳」になってるんだけど、映画本編から読みとると「23歳」になるのでは?なんて調査結果もあったりする。僕も映画はまだ試写で1回しか観てないので記憶違いの恐れもあるんだけど……。なので、「ささやかな出来事についての私立探偵」ごっこは、いまだ継続中ってことにさせてもらう。でも、『デリカテッセン』と『アメリ』、細かいネタのそれぞれの調子や、情報量の多さ、はたまた意外と冷静に計算された狂騒状態……などなどの共通点がアリアリとあることは、うっすらとわかってもらえたのではないだろうか。これは『ロスト・チルドレン』や、『エイリアン4』にすらある“ジュネらしさ”なんだけど、その話をし出すとまた話が長くなっちゃうので、また別の機会にしよう。ま、『アメリ』で改めてジャン=ピエール・ジュネ作品にハマった人は、これを機会に彼の過去の作品を見直してみるのもいいかもしれない、新たな驚きの発見があるかもしれないゾってことさえわかってもらえたら、僕としては本望なのだった。

ジャン=ピエール・ジュネ略歴
ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet)は、1953年フランス生まれ(出身地はパリとされているが、ナンシー説もある?)。8歳の時(61年頃)には小さな人形劇場を作り、舞台セットから照明や静止画(ディズニー映画の断片?)投影機などまで自作自演したとか。9-10歳頃、手回し8ミリ映写機とチャップリンの映画フィルムを小遣いで買う。17歳の時(70年頃?)、父の働くPTT(郵便電信電話局)で工業デザインの仕事につく。初の給料で8ミリカメラと三脚を買ったらしい。その後、兵役を経てパリへ(20歳=73年頃?)。パリ到着後すぐにモンマルトルを舞台にした、霧の中、階段で起こる短編を書いたとか。アニメーション作家のマヌエル・オテロのもとで5年間、使い走りや編集やミキシングの助手を経験。プロ初の作品は、ジュリアン・クラークのクリップ『La fille aux bas nylon(ナイロンストッキングを履いた少女)』。「ビデオクリップ&CM作家出身」という公式プロフィールはこのあたりからか。

1977年、マルク・キャロが作った人物を使って人形アニメの短篇映画『L'Evasion(脱走=The Escape)』製作(発表は78年?)。79年同じくキャロと『Le manege(メリーゴーランド=The Merry-go-Round)』製作(発表は80年?)、模型でパリの広告塔や地下鉄の入り口や共同トイレなどを作ったとか。同作で81年にセザール賞短編賞受賞。1980年、モノクロ短編『Le Bunker de la derniere rafale (最後の突風の砦=The Last Gunfire Bunker)』製作(81年発表?)。リールやグルノーブルの短篇映画祭で最優秀作品賞受賞。その後、ナンシーにあるTV局FR3から52分のフィクションの注文を受けるがトラブる。キャロと組んでの短篇には他にも83(84?)年『Pas de Repos pour Billy Brakko(No Repose for Billy Brakko)』(セザール賞短篇などを受賞)や、制作年不明の『December 25, 1958;10:36PM』や『J'aime/J'aime pas(好き/嫌い=Things I Like, Things I Don't Like)』などがあるらしいが不詳。89(90?)年、短篇映画『Foutaises(つまらないもの=Nonsense)』をドミニク・ピノン主演で製作・発表(91年セザール賞短編賞などを受賞)。「好き/嫌い」を題材としたもので、例えばトイレに座るドミニク・ピノンの画に「逆流してくる水は好きじゃない」と字幕がつくなど、『アメリ』の原型的作品のようだ(プレミア日本版01年12月号では『J'aime/J'aime pas』の続編とある)。

1991年、『デリカテッセン(Delicatessen)』で長編映画デビュー、セザール賞最優秀作品賞他計4部門、第4回東京国際映画祭のヤングシネマ部門でグランプリ(金賞)、シッチェス映画祭監督賞などを受賞。日本での劇場公開は92年12月。95年、長編第2作『ロスト・チルドレン(La Cite des Enfants Perdus/英題The City of Lost Children)』発表。96年セザール賞美術部門(ジャン・ラバス)受賞。日本公開96年4月。以上2作はマルク・キャロと共同監督。97年、ハリウッドに渡って『エイリアン4(Alien-resurrection)』を単独監督(キャロは視覚監修としてのみ遠隔参加)。日本公開は98年4月。そしてパリに戻ったジュネは、2001年4月25日『アメリ(Le Fabuleux destin d'Amelie poulain)』をフランスで公開、大絶賛で迎えられる(左翼の中傷のオマケも付く)。キャスティング段階ではエミリー・ワトソン(『奇跡の海』)を想定し、「パリのイギリス人」的なものになる予定だったが、エミリーが妊娠のため降板し、『エステサロン』のオドレイ・トトゥが抜擢される。ゆえに『エミリ』のEからオドレイの頭文字Aに変換されて『アメリ』になったとか。タイトル案も他に『アベスのアメリ』、『アメリ・ラヴィゴット』、『チキンの冒険』なんてのまであったそうだ。日本公開は11月17日、以後全国順次公開となる。なお次回作には『タンタン』も候補に挙がっているとか。

ちなみにジュネとの共同作業ではアートディレクションを主に担当してきたマルク・キャロ(Marc Caro:ジュネより3つ歳下の1956年生まれ)は、『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』などで出演もしているが、ヤン・クーネン(『ドーベルマン』)の短篇『赤ずきんちゃん』(96)にも出演していた。93年には単独短篇『KOKID』を監督。2001年6月には東京のクラブでDJとして参加するなどマルチ・アーティストぶりを発揮している。本質的には漫画家(BD作家)気質のようだ。お正月日本公開のピトフ監督『ヴィドック』でも(イメージ)キャラクター・デザインを担当した。現在、ルイス・キャロル『スナーク狩り』の映画化『Sn@rk』(2002年予定)を準備中。

Text:梶浦秀麿

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