ブラウン・バニー

例えばそれは、「80分あまりの間、音数の少ないエレクトロニカがかかっていたのに、とつぜんラストになってヒップホップが爆音でかかった」ようだった。

そのエレクトロニカ・ミュージックは、アルペジオが続く。ゆらゆらと響く。心ここに在らず。しかし、窓の外の風景が刻々と姿を変えていることは、そして、その一瞬一瞬の美しさはちゃんと解っている。ただ、それは頭で解っているだけ。心はそれを理解することができない。流れていく風景を、ただ成す術もなく見つめる。デイジー、ヴァイオレット、リリィ、ローズ、花の名前という共通項。流れるアルペジオは哀しい。

『ブラウン・バニー』は叙情詩だと思う。愛の物語?そんなのはどうでもいい、私はそう思う。その映像は、まるでミニマル・アートのよう。フロントガラスの汚れさえをも含めて「美しい」と思わせる。見たことがあるようで見たことのないアングル。各コマ必要最低限に厳選され配置されたモノ。計算しつくされた画面。ミニマルであるということはむずかしい。それだけ細部の細部まで気を配らなくてはならない。ヴィンセント・ギャロの“コントロールフリーク”と呼ばれる一面がくっきりと、鮮明に感じられる。
  この作品は「愛」がテーマなのだ、それはおそらく間違いがない。でも敢えてそれを抜きにして観てみてはどうだろう。ストーリー性だけが映画ではないはずだから。目の前に写し出される映像と、自分の記憶とが入り乱れるような、そこはかとなく切ない気持ちになったなら、その時点であなたは『ブラウン・バニー』にヤラれてしまっている。昔と変わることのない姿で生き続ける茶色のうさぎが耳もとでささやく。

“あなたも知っているはず、ずっと変わらないもの、変えられないものがあるってこと。それが例え「愛」ってものじゃなかったとしても”

この作品に対してどんな感想を持ったとしても、あなたの中の「忘れることのない寄る辺ない思い」が引き出されたとき、『ブラウン・バニー』という映画の存在を認める気持ちになるだろう。

ヴィンセント・ギャロ、この人物ほどボロ着が似合うヤツはおそらくいない。ヴィンセント・ギャロという人物ほど、ひざを丸めて泣く姿が似合うヤツはおそらくいない。自分がどのように見られているか、自分をどのように見せるといいか、この人は意識的か無意識のうちか、とにかくきちんと自覚している。改めてそう思わずにいられない、まぎれもない“ヴィンセント・ギャロ”な作品である。

Text:カジノリコ


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