オナるギャロと月の茶色いうさぎと『2001年 宇宙の旅』

『2001年 宇宙の旅』(1968)という映画があって、映画ではよくわかんないんだけどアンチョコによれば「人類と機械というふたつの知性体の代表選手が闘って、人類側が勝ったので、さらなる進化を認められました」ってな話らしいのだ。この話が哀しいのは、機械つまりコンピュータ知性が人類によって生み出され教育されて「偉く」なりながらも、何故かその「親or創造主」と戦わされるハメになって、で、(もちろん物語上の必然として)負ける寸前に、人間に最初に教えられたという歌をヘタクソに歌うってことである。

「♪デイジー、デイジー/どうか答えておくれ/僕は気が狂いそうなほど、この恋に夢中/お洒落な結婚式にはならないかもしれない/馬車をしたてるお金はないからね/でも君はきっと素敵だろう/二人乗り自転車に乗るその姿は」(ココから引用しました)ってな歌詞の、『デイジー・ベル(or二人乗り自転車)』(1892)という古いイギリスの歌を、教えられた通りに、まるで小さな子供が虐待する親に媚びるように、健気に歌うコンピュータHAL9000。無垢で無邪気で(原罪を知らない)可哀想な子供……。

バド・クレイがデイジー・レモンを想い続けるという映画『ブラウン・バニー』は、このHAL9000が勝ってしまった場合の話だ。なんでかわからんが、まずそう思った。なんでだろう? いや「デイジー」連想ってのはもちろんある。この映画にはバド以外は「女」達の名前しか出てこないし、それはヴァイオレット(色)やミセス・レモン(果物)やリリーやローズ(花)といったリリカルなもので(リリーは鞄に書いてあるだけで名前であることは僕らだけがわかる)、ひな菊(お陽さまの目)=デイジーがそうしたリリカル・フェティシズムの中心にあって、ゆえに僕の頭ン中から古い「貧しい男の求婚の歌」とその拒絶をSFとして語る映画の古い記憶を呼び覚ましたってことだ。「子殺し」も2つの映画の共通項だし、「裏切り」もある。またヤク漬けサイケデリック視覚を希望として採用した68年映画とヤク漬けアメリカの絶望のかけらである03年映画という好対照も……。では何故バド・クレイ=HALなのか?
  ここ1世紀のSF映画で「機械知性」が象徴するのは「人類を滅ぼす強い敵」で、もっと詰めれば「(反宗教な)科学そのもの」とか「古い親を殺してしまう新しい子供(エディプス)」というコンセプトだ。『マトリックス』シリーズなんかはこの図式の陳腐さに敢えて挑戦したものだが、それらのコンセプトを象徴している「機械知性」は、人類を完全に滅ぼしてしまうのはどうやら「淋しい」らしいってことになっている。さて、HALが勝った場合、“彼”はたぶん淋しい、そして喪失感に苛まされる、と想定してみよう。でも目の前には不在だが、かつて人類がいた記憶は完璧にある。だから何度もその記憶を反復し、取り返しのつかない不在はスポイルして、おそらく「デイジー、デイジー」と歌うのだ。対象を失ってしまっても、“彼”はとても「豊かな」精神生活をリリック(詩的)に過ごすことができる。叙情に満ちた風景すら彼のためにある。記憶の反復ごとに冥界から召還される人類という不在者は、もはや「絶対的な他者」などではなく「甘やかす他者=自己の分身」として、彼の望むリアルさで自慰すら助けてくれるだろう。振られ男のナルシシズムに似た、客観的(振った女的)には不気味なホラーでもあるような、ひどく甘美な、いやスウィートでビターな“孤独”の結晶化……。  その孤独な風景の素晴らしさに、その(幻影肢のそれに似た)痛みの求心力のある誘惑にのめり込みそうな僕もいるんだけど、「目の前の茶色のうさぎは、かつて愛した彼女が飼っていたうさぎではないのだ」と気づきながらもフィクション=幻想に生きる道を選ぶ――とここで想定されたHAL君ほど、甘えん坊の子供(ないし子供大人)ではいられない。閉じてゆく世界に引きこもることを、たとえ主観的な傷が深く激しくとも、肯定してはいけないのだ。たぶん。あるいは僕は、そうしたフィクションを前作『バッファロー'66』にはあった諧謔(自らを笑う視点)無しに、シリアスに全面展開させてしまう『ブラウン・バニー』が、やはり負けたHALの歌う「デイジー」の哀しさであって欲しいだけかもしれん。勝ったHALの余技的な「もっとモテたい賞賛されたい」作戦にも見えてしまうところがイヤなだけで……。

Text:梶浦秀麿


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