「でかいチンチンでアソコが痛くて気持ちよくてまるでバージンの気分よってマドンナは歌ってんだよ」「いや違うぞ若造」「うるせー」とかとか、ブラックスーツのギャング6人がコーヒーショップで『ライク・ア・ヴァージン』論議してたりする『レザボア・ドッグス』(91)で、世界のウブな観客の度胆を抜いたQTことタラちゃん。バイオレンス描写の際どさ絶妙さ、独自のしゃべくりユーモアと品のない台詞群のおかしさ、そして意想外の凝った展開の巧さでカルトな熱狂を生み、次作の「B級犯罪小説」というジャンル名をそのまま冠した『パルプ・フィクション』(94)ではジョン・トラヴォルタを見事に復活させて、なんとカンヌ映画祭パルム・ドールまで獲ってしまった。で、監督第3作『ジャッキー・ブラウン』(97)はエルモア・レナード原作の堂々たるノワールなんだけど、主演女優に「70年代ブラックスプロイテーション映画の女王」だったB級黒人女優(失礼)パム・グリアを無理から当てはめて無茶なハードボイルドを展開。……それ以来しばらく監督してなかったんだけど(役者とかはしてたけど)、久々のタラちゃん映画がこうしてついに登場と相成ったのだった。いやあ当時の日本のタラちゃんフィーバー(特に『ジャッキー・ブラウン』公開前あたりがピークか?)を思い出すと、なっかなか感慨深いものがあるなぁ……。さあ『キル・ビル』祭りだ! みんなで大騒ぎしようぜ!→とかいう『キル・ビル』の詳しい話はレビューの方でしたので、読んでね。

で、しかしさてこの新作でタラちゃんフィーバーが再び巻き起こるのだろうか? いや待て。起こる「べき」なのかというとちょっと躊躇しちゃう僕がいるんだけど、観客動員はすげーして欲しい。この後に控えた『マトリックス:レボリューションズ』やら、今ントコ王座にいるらしき『踊る大捜査線2』とも年度ベストを競って欲しいって気持ちに嘘は無いんだけど、この映画はちょっと別格な「問題作扱い」をしてあげる方が、実は相応しいような気もするのだった。

一般論として、いわゆる社会現象レベルの熱狂的ブームを迎えたものは急速に醒められちゃうってのが世知辛い世の習い。90年代は小室ファミリー系音楽、たまごっち、ナタデココ、『新世紀エヴァンゲリオン』、村山内閣に殿(細川だっけ?)内閣、ノストラダムス(笑)などなど、暴走した群集心理で「一人勝ち」しては後にサーッとひかれてしまい、時には無根拠に忌み嫌われ、あるいは語ることさえタブー視され、理不尽な黙殺なんて目に遭ってしまう事象は数知れない。ごく少数の心ある(?)マジメな信者のみがその熱を持続させ、多くは女心か秋の空のように(性差別表現ですね)移り気な本性を隠しもしない。この高度資本主義社会(笑)では、あらゆるものが人気商売なんだけど、その本質的な残酷さについては、サブリミナルな所=潜在意識下での「忘却」が義務づけられているのだ。

「みなさんはいつもとても飽きっぽい」――岡崎京子『ヘルタースケルター』より。

『キル・ビルVol. 1』は古いマイナーな日本映画や香港カンフー映画をよく覚えている。古典的名作なんてものじゃないが、多くの日本人も忘れてしまったような、リアルタイムで観ていない者にとっては無かったことにされてる気配のサブジャンル映画の数々が、そこにはちりばめられているのだ。ここで言うサブジャンル映画ってのは、要するに「ちょっとウケたから同じ傾向のものになら金を出すってパトロンがいるんだけど……」ってな調子で量産される任侠ものやらカンフーものやらチャンバラやら女闘美やらって映画のことだ。資本サイドは手堅い儲け話と思って投資するらしきこの手の流行サブジャンル映画は、その枠内で工業製品のように作品を作ることを創り手に強いるというネガティヴな側面もあるが、敢えてその制約(安く早くたくさん同じ話型のものを作るという)の中で格闘する創り手の意欲を掻き立てて思いもよらぬ輝きを放つ作品を生むというポジティヴな効果もあるから一筋縄ではいかない。

こーゆーのをアメリカでは若干の揶揄も含めてエクスプロイテーション映画とか言うらしい。実はこの「エクスプロイテーション」ってのも厄介な言葉だ。僕はサブリミナル広告の研究書、W・B・キイ『メディア・セックス』の原題“Media Sexploitation”でこの単語を覚えたので、「ふむふむ、メディア(広告・販促表現)の性搾取ね」と半可通な覚え方をしていたので今回ちょっと辞書をひいてみた。Sex+exploitationで「性を利用・売り物にすること、その目的の映画、性的搾取」だとか。サヨク・フェミっぽい語だなあ。つまりはもともとはポルノやAVのことかと思うんだけど(Sexploiterで「ポルノ映画」の口語表現ってあるし)、その場合、「搾取」されるのは女性? いやそういうのにお金を注ぎ込んでしまうのは主に男性だから、要は「性的欲求を抱えた男性市場に向けた(特化した)映画」ってことかな。exploitationの語釈は「1.活用、(天然資源の)開発、(山野・森林・鉱山の)開拓、(商品などの)市場性開発、宣伝、(販売)促進。2.私利を図る利用、(他人を)食い物にすること、(労働力の)搾取」だから、「性的開発」にして「性的搾取」って二重の意味があるようなのだ。で、辞書によるけどblaxploitation(black+exploitation)は「黒人開発」なんて訳語にしてあったりするワケか。「(映画・演劇で黒人俳優を主演させ黒人観客に見せることによって黒人への関心を開発すること)」と補われてる。なるほど。『キル・ビルVol. 1』の第1章「2番」は、そういうブラックスプロイテーション映画へのオマージュとなっているらしい。

映画史的には、ブラックスプロイテーション映画ってのは70年代初頭、黒人監督をとりこんだハリウッド資本が、低予算のアクション映画というフレームで撮らせた一群の作品を指す。ちょうど公民権運動が盛り上がってブラック・パワーが喧伝された頃の話だ(以前『8マイル』特集コラムで書いた町山『ロッキー』論の紹介のところを参照して欲しい)。黒人解放・地位向上運動家には「白人・ユダヤ資本におもねっている。黒人が搾取されている」とか批判されたが、「ハリウッド映画の約束事は黒人観客にアピールする有効な戦略であり、その中に公民権運動的な高い政治意識を盛り込むことで約束事=枠自体を内破できる」と当の黒人監督サイドは主張していたようだ。だがすぐマンネリ化し、70年代半ばには廃れてしまったらしい(TVのせいでもある)。このサブジャンルは90年代初頭にニュー・ブラック・シネマとして一大ムーブメントになるんだけど、そういえばちょうどその頃登場したのがクエンティン・タランティーノなのだった。

さて。70年代はカンフー映画の時代でもあったし、ポルノ映画の時代でもあった。どちらもジャンルとしては古くからあるものの、ブルース・リーの香港映画『ドラゴン危機一発』『怒りの鉄拳』(71)〜アメリカ・日本で公開された『燃えよドラゴン』(73)〜『死亡遊戯』(78)がそのサブジャンルを明確に認知させ、あるいは『ディープ・スロート』(72)に『ラストタンゴ・イン・パリ』(72)、日活ロマン・ポルノ(71〜88)、『愛のコリーダ』(76)が社会現象を呼ぶ話題となったりしたワケだ。どちらも客を選ぶ(笑)サブジャンルだが、そのどちらにも熱狂的な情熱を持った客がついたのだ(70年代のイーストウッドのB級西部劇を極端に持ち上げた蓮實重彦も忘れちゃいけないがここでは略)。そういやタラちゃんが敬愛する深作欣二(『バトル・ロワイヤル』)の『仁義なき戦い』『仁義なき戦い 広島死闘篇』『仁義なき戦い 代理戦争』というシリーズ最初の三作は73年に公開されているから、70年代は任侠映画の時代だったとも言える(今、Vシネを支えてるのはこの時の熱狂のリバイバル熱なのかもしれない。あ、レンタルビデオ屋で見かけた『レザボア・ドッグス』には『仁義なき男たち』と大きく副題が入ってたりする……何か激しく違和感があるんだけど……)。まあヤクザ映画も客を選ぶ=市場を特化したサブジャンルなのは間違いない。こうして、なんでもかんでもエクスプロイテーション映画扱いできちゃうのが困ったところだけどまあいい。要点は「安く・早く・大量に」作られることが前提条件であり、話はわかりやすい「物語」になっていて、でも何か過剰なものが込められていること。ある市場(黒人/スケベもとい男性/男気を学び体感したい人/カンフー・スピリットを学び体感したい人etc.)に特化した映画でありながら、時に(初発は)社会現象を呼びつつ模倣作を量産することになる。あ、日本アニメも「安く・早く」と手塚治虫の虫プロが始めて、その「量産」体制がリミテッドアニメーションの独自進化を呼びつつ、子供向け=玩具購買層という市場に特化した発展を、70年代に遂げたのであった。ジャパニメーションもエクスプロイテーション映画のひとつだったのね、とか。

そういう70年代のある種のエクスプロイテーション映画への愛が、『キル・ビル』には明確に込められていて、タラ本人も「これはエクスプロイテーション映画だ」と規定していたりする。では何を誰を「エクスプロイト=搾取/開発」する映画なのか? それがここで問題にしたいことだったりするのだ。まず、過去のエクスプロイテーション映画を「搾取」し「開拓」する「メタ・エクスプロイテーション映画」であること。これはもてなしの良いB級娯楽大作の顔をした『キル・ビル』の「深み」を論じる時に重要なことだ。だけどともすれば「元ネタ知ってる合戦」にしかならないのが厄介で、一時の熱狂的ブームの去ったサブジャンル映画群を「覚え続けている」ことの意味や、その引用がもたらす「二重化」についての論考まで辿り着くのは難しい(「みなさんはいつもとても飽きっぽい」という耳に痛い批判を有効に発展させるにはどうすればいいのか?)。第一、予算規模からしてエクスプロイテーション映画の範疇を超えているのだし、「物語」は単純でも語り口はジャンル映画らしからぬ凝り方だし、タラちゃんが公言するほど「エクスプロイテーション映画」ではないという矛盾に、激しくツッコミを入れるべきなのだ。けど、まあやりだすと長くなるのでそれは別の人にまかせよう。

それよりこの『キル・ビルVol. 1』がほぼ明白に「日本エクスプロイテーション映画」であること、つまり日本人が搾取され、日本市場が開拓・開発される映画であることの「奇妙にこそばゆい喜び」の感覚(?)が気になるのだ。映画で描かれる日本はリアルな日本じゃ無く架空のヘンテコ日本なんだけど、それは日本映画の想像力の内にあったものだ。また「黒人が主役で監督だからブラックスプロイテーション映画と言うんであって、日本エクスプロイテーション映画というなら何故日本人が主役じゃないんだ?」と痛いトコつく人もいるかもしれん。確かに主役陣のユマ・サーマンやルーシー・リューはガイジンだけど、日本アニメのガイジン顔キャラの実写化と思えば、日本語を一生懸命しゃべってることもあって、許容範囲(←って何の?)だ。というより監督のタラちゃんはある意味無邪気に日本映画の監督であろうともしているのだ。あるいは栗原千秋こそ『Vol. 1』の主役であると強弁してみてもいいかもしれん。いや、そーゆー話にしたいんじゃ無くて。

昔、「地球まるごとTV」とかいう深夜番組で、ハリウッド映画などに出てくる変な日本(とかアジアでの変な日本語表記とか)を紹介する山田五郎の『奇妙な果実』というコーナーがあったけど、あそこに出てくる「変な勘違いされた日本」とは微妙に違った、しかしやっぱり変な『キル・ビルVol. 1』の日本を観て、そこに「アメリカ人の日本像の第二段階変化orパラダイム変換」みたいなのを感じたわけだ。『ブラック・レイン』(89)の「大阪」が過渡期なんだろうけど、今思い返すと(松田優作の最後の映画という価値は認めるとしても)、その日本描写の「こそばゆさ」は、90年代のブームになった事象群への恥ずかしい感じに似て「無かったことにしたい」感がふっと湧いてくる。でも『キル・ビルVol. 1』の日本って、最初からその「無かったことにしたい」感を逆手にとってるとでもいえばいいのか、なんか「こそばゆさ」が喜びでもある感じがあるのだ。つまりアメリカ人が観た異国情緒とか周縁国幻想なんて視点ではなく、日本人が普通に受容してきたかあるいはこっそり受容してきたヤクザ道やら武道精神やら女性幻想やら幼児性(オタク性)やらをキッチリ理解して、それを(過ぎ去ったブームとして)忘却することを日本人に許さず、しかもハリウッド=アメリカ世界戦略映画流に料理されてもいる視点、とでも言えばいいのか。ブラックスプロイテーション映画が黒人市場をターゲットにその娯楽性で惹き付けつつ「黒人の誇りを教育(啓蒙)するための映画」でもあったように、この『キル・ビルVol. 1』は日本市場をターゲットにその娯楽性で惹き付けつつ、過去の日本や日本人のエッセンスを再教育(啓蒙)するための映画でもあるのだ。と思う。偏った日本理解?――なんて思っちゃうのは、日本のハイ・カルチャーや流行の上っ面だけしか見えない(振りをしている)からで、大衆文化が絶えず更新してきた「日本らしい日本」像の伏流というか広大な裾野の方にこそ、正しい日本理解の鍵が隠れてるのかも知れないのだ(裏返してマカロニ西部劇やギャング映画でアメリカ理解しちゃう場合の「正しさ」なんてのを想像してみるのも吉)。だからこの映画を嫌う日本人もいるだろうし、それを言うならクエンティン・タランティーノ映画が最初から持っていた「資質」=“エクスプロイテーション映画の申し子”という「恐ろしさ」を今こそ再認識すべきなのだと思う。

90年代のタラちゃんブームの時は、熱狂的な支持と浮薄な大衆の評判を生みつつも、一部で(アメリカのハイソな批評家達とかの間で?)バイオレンス描写や下品なギャグに対する批判が熾烈にあった記憶がある。そんな毀誉褒貶で大騒ぎって時期が過ぎ、一時は「終わった人」として消費されちゃったかに見えたタラちゃん。その復活作『キル・ビル』は、それ自体が1970年代の数多のサブジャンル映画からの「逆襲」であることがより明確に自覚されるべきであり、つまり前世紀=20世紀の終盤30年間で高度資本主義社会が
体現してきた「とても飽きっぽい」時代精神に揺さぶりをかける「問題作」であること、さらにその鉾先(笑)がこの前編では何より「日本」であることに、僕らはもっとドキドキしなくちゃいけない、んではないだろうか? 全米公開Ver.よりも長いアジア版は、正式に「Japnese Version」と言われているらしい。そこまで気合いを入れてもらったからには、exploite=搾取/開発される側の一員として、この「奇妙にこそばゆい喜び」と恐ろしさを、存分に隅々まで味わってみて欲しいと思うのだった。

Text:梶浦秀麿
『キル・ビル』
2003年10月25日より丸の内ピカデリー1他・全国松竹東急系にてロードショー

製作・監督・脚本:クエンティン・タランティーノ
出演:ユマ・サーマン、ルーシー・リュー、千葉真一、栗山千明、ダリル・ハンナほか
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