「ますます堂に入る“ヘンテコ”な味わい。嗚呼!コーエン兄弟よ、どこにいるのか?」
text by Hidemaro Kajiura


いやぁ『オー・ブラザー!』サイコー! 30年代アメリカ南部を舞台とした珍道中ものなんだけど、いつもながらの「コーエンな感じ」をも堪能させつつ、実におおらかに朗々とドタバタな笑いを展開してくれる。音楽もいいし、とぼけたテンポも最高だ。ほのぼのした感動を呼ぶハッピーエンドな娯楽作なんだけど、よく考えると単純にいい気分になってていいのかちょい不安にもなる微かな苦味もあるってのが「らしく」ていいんだなぁ……。

さて、コーエン兄弟といえば「カリスマ的人気を誇る映像作家」とか「ウディ・アレンより手練れの超ヘンテコなコメディ感覚が持ち味の映画監督」とか「タランティーノとはひと味違う文化系のジャンル派」とか「インディーズ感覚をメジャー娯楽作に仕立てる天才肌兄弟」とか、どうもいろいろな“括り方”をされている。評価のされ方も微妙でいて絶妙なポジションにいる感じなので、なかなか掴みどころがない。どうにも一筋縄ではいかない映画作家ユニットなのである。一応、兄ジョエル・コーエンが監督で、弟イーサン・コーエンが製作、脚本は共同------ってな役割分担があるようなんだけど、ロナルド・バーガンの『すべてはブラッドシンプルから始まった』(アーティストハウス)なんかをチラッと読んでみると、どうも『エデンの門』(アップリンク)って短編小説集もある弟のイーサンの方が脚本でメインを張ってそうだし、ということは監督的な画面設計やら音楽のアイデアなんて作業も分担してる感じ。しかも編集まで二人でやる場合も多い(彼らの作品で編集としてよくクレジットされてる「ロデリック・ジェインズ」が「ジョエル&イーサン・コーエン」の変名だってのも公然の秘密だし)。まさに彼らの映画は「兄弟で隅々までトータルコーディネイト、トータル・コントロールされた総合芸術」でもあるのだ。

→付録:コーエン兄弟の略歴と作品


【コーエン兄弟監督の映画って、ヘンな映画?】
で。個人的なコーエン兄弟映画観なんだけど……うーむ。例えば『ファーゴ』でも『ビッグ・リボウスキ』でもいいけど、彼らの作品については、まず、あまり積極的に熱く語るのは何だかカッコ悪い気がする。どれも「ヘンな映画を観たなぁ」ってのが第一印象で、「妙に面白かったんだけど、どうも細かい内容を覚えてないなあ。どんな話だったっけ?」ってな気分が続く。タイトルから大まかなストーリーを思い出そうとするんだけど難しい。あらすじ自体と観た時の感覚も、どうも違う気がする。しかたなくビデオで見直そうとか思うんだけど、どうも気が乗らない不思議な感触がある。「ん?」とか思いながら微かな抵抗感に抗って観始めると、「あああ、この独特のタルい展開かぁ、うう、イライラするぅ」と、コーエン兄弟監督の映画に共通する感触を思い出す。でも、ちょっと我慢して観てるウチに、そのじっくりした語り口のリズムにハマってきて、その今まさに画面で繰り広げられている映画のディテールの一々に細かく反応してる自分を感じる。画面作りというかシーン展開が「丁寧」というか「律儀」なんだろう。ふざけてるような場面でも律儀な感じがする。で、役者達の一挙手一投足にじっくり見入ってしまう。それぞれのキャラの立ち方が気に入る。台詞の機微にニヤリとしたりクスクス笑ったりジワンときたり、場面場面がとても良くできてるのに気づいて、しょうもない小ネタのギャグにもヘラヘラさせられながら、それでいて何故か予想できないような意表をつく展開をカマされて、アレレとつい乗せられて引き込まれ、「なるほどー」ってな感慨で唸らされ、そのくせ「ズトーン」とか「ガツーン」ってな凄い感動や衝撃は何にもないまま、割とあっさり目に終わる。軽いカタルシスはあるし破綻もないから、「たっぷり映画を観た」ってな疲労感はある。「愉しませていただきました感」も適度にあるので、充実した時間を過ごした気になる。これが映画の醍醐味だよな、とか思う。映画をよく知ってる人の映画を観せてもらったって感じ。------脇役までキャラの立った登場人物達。超ムダみたいなのに、その映画にとっては意味のあるシーンの数々。脈絡のない話が続くのに、ちゃんと一本筋が通ってる不思議。特有の色彩設計へのこだわり(やり過ぎるとソダーバーグになる)。俯瞰ショットやワイド・レンズでの撮影、シェイキーカム(メガドリー)など素速い移動撮影やトリック撮影など観せるテクニックも渋い。独特なサウンド・デザインのセンス。時間・空間を自在に操るかのような独特な実験的編集……などなど、語るべきことも多い。

でも何か心に残らない感じ、ないし何か変なものが残ってる感じがある。いや、「これはひょっとして凄い映画を観せられてるんじゃないか?」って気分は観ている間にも既にあったりはするのだ。たとえユルユルでコミカルな場面でも、いちいち凝ってて、密度が濃くて、テンションも高い感じがするから、ついずうっと緊張して観てしまってるらしく、観終わってグッタリしちゃう時もある。今回もビデオで初期作品からまとめて観直していて、僕は何だかすっかり疲れてしまった。それで作家論なんてのを熱く語りたくもなるんだけど、はて、ハズレは一本もない、んだけど、何か「生涯の一本」って言いたくなるような凄みがないような気もする。「どれもこれもバカ話なんだよな」って知ったかぶりでゴマかそうか、いや、でも「何か」があるような……。そんなこんなで、やっぱり「ヘンテコな映画」、でも紛れもない映画そのものを観た感じだけが残るのが、この兄弟の作品なのだろう。僕にとっては、決して「大好きなカントク」じゃあ無いんだけど、「凄く気になるカントク」ではある。

ところで彼らの新作『オー・ブラザー!』、また何とも良かったのだ。やっぱり「バカ話」なんだけど、とっても楽しい。のん気な感じ、大らかな感じがカントリーな音楽劇仕立ての陽気さにマッチしてて、しかも意味ありげに知的な感じもする。アタマのいい人がサービス精神全開で愉しませようとしてくれている風なのが微笑ましい。えーい、どうも全作品まとめての感想ってピントが合わない感じもする。ここいらでコーエン兄弟監督の個々の作品について、もうちょっと紹介してみよう。


【コーエン兄弟監督全作品ガイドというか私的コメント】
それでは、一作ごとにちょっと我流に紹介してみようかな。

1)『ブラッドシンプル/ザ・スリラー』(84-99→日本公開87-00)
:舞台はテキサスの片田舎。脚本は80年に書かれたというので、時代設定は70年代後半から80年あたりか。安酒場のバーテンとボスとその妻のシリアスな三角関係に、デブの私立探偵が絡んでノワールフィルム調に展開。でもクールな笑いもある。コミニュケーションのズレが、ヤな方へ転がる感じにハラハラしたりイライラしちゃう。テーブルの上に置かれて腐ってく魚が、グリーナウェイ的というかリンチ的というか……。クライマックスの闘いはスリリングかつシャープで、ヤラレタって感じ。サバイバルする者以外はみんな罪があったので殺されるのは仕方ないか、いやサバイバルした人にも罪はあったんから……と考えると、罪の質の違いで神=作者が選別したってことか? 夢のお告げをあげたことだし……。しかし、とすると、この神は残酷だ。3発だけ弾込めしたはずの小型の拳銃の「移動」、探偵のジッポライターなど、小道具の描写へのこだわりが既に「らしく」て面白い。タイトルはダシール・ハメットの小説にある言い回しで、「恐怖や困惑の果てについに殺人を犯してしまうこと」をブラッド・シンプルって言うんだとか。少し短くした再編集版には「/ザ・スリラー」がついた、ダサい。

2)『赤ちゃん泥棒』(87→日本公開88)
:舞台はアリゾナ州。チンケなコンビニ強盗常習犯が、女性警官に惚れて結婚。だが子供ができないので5つ子のニュースを見て、つい……ってなコミカルな誘拐ドタバタ劇。脱獄してくるデブ兄弟に押しかけられたり、クライマックスは地獄からきたデブ・ライダーとの死闘。ムチャクチャな展開に唖然としつつ、オチの穏やかでハッピーな未来の予感にうっかり丸め込まれる。でも「引っ越すならユタかな」って台詞は、アメリカ・ローカルなギャグなんだろうか? わからない。主役のニコレス・ケイジ(若い!)のボサボサの髪型がいい。女性警官役のホリー・ハンターもヘンでいい、というか脇役に至るまで全て変人だらけってのも、よくよく考えると凄い。漫画だ。あ、邦題がファミリー・ムービー風なので違和感バリバリだったなぁ。でも原題の『Raising Arizona(アリゾナを育てる)』ってのもよくわからんかも。あ、某キネ旬別冊のコーエン兄弟特集だとデータもみんな「Rasing Arizona」になってるので「アリゾナ破壊中? すげえ題だな」とか思っちゃった。

3)『ミラーズ・クロッシング』(90 →日本公開91)

:1929年のアメリカ東部の地方都市。ギリギリ大恐慌前なのかな。基本はシリアスなギャング映画なんだけど、やたら会話劇のテンションが高く、銃撃戦にも皮肉な笑いがある。ディテールの笑い多数。僕は久々に2度目に観て、幕切れで大笑いしてしまった。ダンディな「男と男の世界」が、劇中のゲイ達の印象もあって「やおいギャグ」に見えちゃったのだ。「ボスが女を選んだからって拗ねて別れて涙ぐむなよ」、みたいな。けど笑うシーンじゃないのかな、とヘンな気分にもなる。最近の学説である「ホモソーシャル」な世界=会社とか軍隊という男社会のホモを嫌悪する潜在的ホモ達の集団って図式に、このギャング社会ってのがすっぽり当てはまる気がしたんだけど……。アイリッシュ系とイタリア系のマフィアの対立を生むことになる姉弟の、キャラ造形が巧い。特にジョン・タトゥーロの芯まで腐ってる感じの小狡い弟役は出色。本作のこだわりは黒いソフト帽の移動描写だな。タイトルは「鏡の十字路」だとつい思い込んでたけど「Miller's(粉屋とか水車小屋の、か人名ミラー氏か)」ってことは、地名なのかなぁ。

4)『バートン・フィンク』(94→日本公開95)
:1941年のNYブロードウェイ→LAハリウッド。でもほとんど古いホテルの中で展開する、カフカ的な悪夢めいた不条理ドラマ。なかなか注文されたレスリング映画のシナリオが書けない主人公の劇作家、バートン・フィンクに思わず共感(笑)。シリアスな閉塞感と不気味な暑さにヤられる。真珠湾攻撃の頃の話だったのね。「ハイル・ヒットラー」とか言ってのけるジョン・グッドマンの怪演がサイコー。あの謎の箱は、村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』の「UFOが釧路に降りる」に出てきた箱に思えて仕方がない。現実と幻想の不確かな移行処理の仕方は、コミックな『赤ちゃん泥棒』のシリアス不条理ヴァージョンかな。全体的に、コーエン兄弟作品にしては仕掛けがシンプルでストレートな感じ。でも最も謎めいている、というか誤魔化してる感もあり。これもただの人の名前ってタイトルからは、中身が想像つかんよな。ところでフィンクの部屋で女を殺したのは誰? あのアル中先輩作家なのか隣人なのか? それともホテル内で起こったことは全て夢なのかな?

5)『未来は今』(94→日本公開95)
:1958年暮れのNY。毒のあるスクリューボール・コメディ調のサクセス・ストーリィ。やっぱりクライマックス前のビートニク・バーでの泣きのシーンで笑っちゃう。彼の故郷の応援歌をしっかり覚えていて、慰めるために諳んじてみせた感動的なシーンなのに、「でも同郷のくせに裏切った」ってオイ……意地悪な脚本だ。でもブホッて笑ってしまう僕も、意地悪なのか。○を書いただけのアイデア・メモは、最初観た時「ひょっとして『バートン・フィンク』みたいにオチ無しかも」とハラハラしてしまったので、思わぬ展開にニヤニヤしたのを思い出す。コーエン兄弟作品では批評家受けも悪く、興行的に惨敗したらしいのだけど、今回観直した中では「バカらしさ」と「感動」のバランスがいいかもって思った。『未来世紀ブラジル』っぽい美術やシークエンス(社内郵便システムの描写なんてパクリに近いオマージュ!)なんかも好きだ。虚実ないまぜなホラ話志向全開。何せ、あの有名玩具2つやアイデア・ストローの発明秘話に仕立ててあるのだから。原題は劇中のブルーレターから採った「ハッドサッカー(社長)の委任状」、邦題はその会社の宣伝コピーから来ている。僕なら「○」にするかも(笑)。

6)『ファーゴ』(96→日本公開96)
:1987年冬のミネソタ州ミネアポリスとノースダコタ州ファーゴとブレイナード(とビスマルク)。実録もどきの誘拐事件もの。ロケーションは兄弟の出身地であるミネアポリス周辺、話は妻の父親の金を狙った男の営利誘拐というショボイ犯罪映画だが、がめつい義父も雇われ実行犯コンビもちっとも思惑通りに動いてはくれず、二転三転してオオゴトになる。事件を追う田舎の女性警察署長は臨月で、夫は売れない鳥専門の絵描き。夫に不満はないけれど、捜査中に懐かしの同級生に会ってときめいたり幻滅したりってエピソードもショボイと言えばショボイ。少し奇妙な、でも普通にいそうな登場人物達をじっくり描き、ペーソスに満ちたシリアスな感じに、きわどい笑いがいっぱい仕込まれてる。雪景色が印象深い。意味ありげな巨大キコリ像が変だ。『ブラッドシンプル』主演女優にしてジョエル・コーエンの奥さん、フランシス・マクドーマンドが演じる臨月の女性警察署長マージが主役(アカデミー主演女優賞!)、といいつつ実は「クシャおじさん顔」のウィリアム・H・メイシー演じる狂言誘拐の首謀犯の方がじっくり描かれてるような……。ダメな犯罪者ばかりを観客の共感を呼ぶくらい描き込むのが癖なのね。脇役もいい感じに壊れてる。山本政志監督モデル説(by石井聰互)もある日系人も登場(笑)。地名がタイトルだけど、その土地を象徴する映画みたいに思われるので、やはり地元の人は嫌がるんではないのか、と余計な心配しちゃったりした。あのブシェミが埋めた大金の行方が気になる。

7)『ビッグ・リボウスキ』(98→日本公開98)
:1991年、湾岸戦争時のLA。私立探偵ものをミュージカルに処理した奇天烈なコミックなお話。とにかく妙に楽しい。ご当地ネタというかアメリカ・ローカルな細かい笑いはわからないとこもあるけど、ハチャメチャな展開にひとまず騙されてしまう。メイン・プロットはレイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』だとか、キャラ造形は同じくチャンドラーの原作でロバート・アルトマン監督のちょっとズラしたハードボイルド『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』だとか言われてるんだけど、他にも西部劇やらボウリング・スポコンもの(笑)やらのネタを仕込んであるし、さらに90年代が舞台なのに70年代のポップスやらロックやらを全編に散りばめた音楽劇でもあったりするので、いろんな観方をしちゃうことができる。タイトル「ビッグ・リボウスキ」は大富豪のあだ名。主人公デュードは、彼と同姓同名だったことから事件に巻き込まれる。でも敢えてタイトルにするかなあ。誘拐の仕掛けは前作『ファーゴ』より高度というかぶっ飛んでたりする。※以下、もろネタバレだけど→結局、元ポルノ女優バニー(タラ・リード)を後妻にした富豪リボウスキ(デイヴィッド・ハドルストン)が、前妻の娘モード(ジュリアン・ムーア)の管理する財団から金を引き出すために画策した狂言誘拐計画ってのが背景にあって、そのバニーの借金を取り立てに来たマリブのポルノ映画成金の手下達に、人違いで(ホントかどうか怪しい)絨毯を汚されたデュードが、リボウスキ宅に談判に行って、まんまと空っぽの身代金運びに利用されたってワケか。で、ジャーマン・テクノ系強盗団は富豪にそそのかされた上に騙されて、足の小指まで犠牲にした挙げ句、デュードらにやっつけられるって悲惨な末路。あれ? モードの部下達は? いかん、久々に見直したけど、ややこしくてまだわからん所がある。ま、話がややこしくなるのは、デュードの相棒のベトナム帰還兵(別れた妻に合わせてユダヤ教に改宗した元ポーランド系旧教徒、旅行中の元妻の飼い犬の面倒もみてるってな細かい設定がある)のウォルター(ジョン・グッドマン)のせい。デュードのポンコツな愛車が、徐々に壊れてついに再起不能になるのは、余計に掻き回して混乱させまくった彼の大活躍のおかげだろう。反対にブシェミは前作で喋りすぎたせいか、本作ではほとんど喋らせてもらえず、でもやっぱり呆気なく死んで、ミンチじゃなく正式に火葬にされて、海にと言うかデュードに向かって灰を撒かれるのだった。他にも富豪の秘書役のフィリップ・シーモア・ホフマンも、ボーリングでのデュードのライバル役のタトゥーロも、実にいい味出してる。登場する脇役みんなの漫画な壊れっぷりは全作中で一番かもなぁ。語り手の老カウボーイが、モードとデュードの間の子供の誕生を予言するが、それより翌日のボーリング大会でデュード達が優勝したのか知りたい。

8)『オー・ブラザー!』(00→日本公開01)
:1937年のミシシッピー州。脱走した囚人3人組+αによるファニーなドタバタ珍道中。ズルいくらい楽しいバカ話に仕上がってる。ジョージ・クルーニーは『スリー・キングス』でも3人組+α珍道中やってたなぁ……と、ふと思い出して、アッチのラフさと比べて改めて「緻密に作りこまれた、いい加減なバカ話」の偉大さを思う。さらにこっちは『ビッグ・リボウスキ』の音楽よりもっと遡ったアメリカン・ルーツな音楽劇でもあり、文化的な仔細はわからずとも「なんだか懐かしい」感じが全編に漂ってるので好感度を増幅させたりもしてる。コーエン兄弟作品の中では、アメリカ本国で最高の動員を果たしたというから、やっぱり一番とっつきやすいのではないだろうか。詳しくはレヴューを見てもらおう → [Review:オー・ブラザー!]


【コーエン兄弟映画の悪口コレクション】
さて。一通りコーエン兄弟の作品を追っかけてみたけど、どうもうまく言えた気がしない。いろんな作品紹介文を参考に読んでみたんだけど、みんなどこか違う、間違ったことを書いてるような気がしてしまうのだ。うーむ。いろんな人の意見をまとめてみたくなってきた。先程ちらっと挙げたキネ旬ムック「フィルムメーカーズ5コーエン兄弟」なんだけど、読むとコーエン兄弟映画のケナシ方もよっくわかるようになってる------っていうか、彼らの映画についてはそれぞれの執筆者も心中複雑みたいで、基本的にホメ評多数のはずのムック本なのに「××と批判する向きもあるが」とかいう形でケナシ評を気にしている感ありありってのが多い。あるいはやはり的確な評が書きにくい作品なのかも。一部の断定式の作品評ほど、笑いを誘うものが多いし……。で、肝心の知りたいことが書いてない感じもあって痒いところに手が届かない気分だ。とりあえず典型的な「批判ことば」を集めてみた。

×「性格が悪い」:まあこれはホメ言葉でもあるな(笑)。ティム・バートンだってジュネ&キャロだって、性格悪いとホメることもできるワケだしね。

×「狙いがわからない」「狙い過ぎ」:どっちだ。ま、観てる時に、つい話の「狙い」を先読みしたくなる観客のさもしさを表してるのかも。逆にギリギリまで作り込み過ぎなところも確かにある。『未来は今』はそれがあからさまだと評する人多し。そうかなー?

×「たまにイライラする」:これは僕も最初の方で書いたとおり。展開がトロいんだよな、いつもいつも。

×「どの場面にも漂うヒステリックな雰囲気」:滝本誠センセイの絶妙な卓見。曰く「ブレないデイヴィッド・リンチ、下半身のないウディ・アレン?」とか。密度が濃いというか、これも最初の方で書いたとおり、画面のテンションが高い感じを言うんだよな。これもホメ言葉でもある。我慢強くない人はダメなのかもなぁ。

×「窮屈な感じ」「閉所恐怖症的」:これは多くの人が言ってる。ホメ言葉でもある。國文學97-3の「映画」特集で川本三郎も言ってたな。『バートン・フィンク』がわかりやすい例。ロマン・ポランスキー監督の影響とする説多し。でも『オー・ブラザー!』はそういうカテゴライズへの反撥か。

×「ヒーローらしい主人公が出ない」:低所得者層や負け犬系ばっかり描いてるからね。強くて正しい人が勝って、スカッとすっきりってな話じゃない。

×「スタイルばかりで中身のない映画」「頭で作った心ない映画」「本物の人間も現実も描けない映画」:形式・様式へのこだわりとか、インテリジェンスが染み出る映画にはお決まりの批判だ。当たってるとも思うけど。

×「映画の過去に対しておぞましいまでに無礼」「つぎはぎだらけの引用映画」:これは映画を観過ぎた人達の間で語られるべき話題かな。何の引用かわからなけりゃこの議論に参加できん。でも元ネタを列挙したからといって、パクリ云々って非難するのは野暮のすることだしなぁ。逆に「映画の過去に対する知的なオマージュ」とか言えそうだし。

あ、そういやフィルムアート社のムックCineLesson7『<逆引き>世界映画史!』は、現代の映画監督が影響を受けた古典映画の監督をガイドしたものなんだけど、何故かコーエン兄弟の名前が全くでてこない。彼の引用作を全部列挙すれば、ちょっとした映画史が作れそうなのになぁ。昔に出たCineLesson1『現代映画作家を知る17の<方法>』では、コーエン兄弟はタランティーノに代表される「ジャンル派」ってカテゴリーに入れられてるんだけど、アクション系のB級映画や黒人向け映画というジャンル映画を浴びるほど観てるタランティーノが、『<逆引き>世界映画史!』ではフランク・キャプラだけに影響受けてるみたいに書いてあるのは、まあ良しとして、何でコーエン兄弟は無視されてるのか? 批評家よりコーエン兄弟の方が映画に詳しいから挙げきれないってことなのかな。ちなみにスタジオ・ボイス8月号の映画特集、その名も「最終アメリカ映画」(!)にも、全く名前が挙がってないのはどうゆーこと? もう「アガリ」だからホメないってことなのか、それとも特集構成協力してる町山智浩センセイとかには嫌われてるのかな? でもコーエン兄弟の描くボンクラとかダメ男って、町山センセイは好きそうなんだけどなぁ……。と、どうも最近のコーエン兄弟の映画界の位置が、よく見えない感ありなのだ。


【で、結局コーエン兄弟映画とは何なのか? ホメ方というか、ひとまずの結論のない結論】

さて。敢えてケナシ文句をダダッと列挙したのは、それが逆にこの監督作品の特徴をよっく表してもいるから。さらに言えば、散々悪い評判を聞いてから観る映画って、「いや、それほど悪くないじゃん」と何故か凄く良く思えたりして、得した気分になれるという個人的体験から(逆に見事なホメ評につられて行くとガックシってパターンも多い)------ってことにしておこう。

コーエン兄弟監督のカッチョいいホメ方としては、「独特のオフビート感覚」とか言ってみたり、キャラが低所得者層や負け犬系であることを「ローライフ」や「ルーザー」ってカタカナにしてみたり(笑)、「そういう庶民やダメな人、ヘンな人への愛情が溢れてる」ってな言い方もできそうなんだけど、どうも白々しい気もする。また、これまで全てアメリカを舞台にしてアメリカ的なホラ話(トールテール)を描いてきたので、彼らの映画のテーマは「アメリカ」ないし「アメリカ映画」だって言い方もある。でも製作中の『To the White Sea』(『The Man Who Wasn't There』の次だから10作目になるのか?)は日本が舞台だというので、そう言い切っちゃうのも微妙なところかも知れん(←と思ったら『To the White Sea』製作中止ないし無期延期とかのニュースが……。やはり「アメリカ」しか描けない運命なのか、コーエン兄弟って)。

さらにやはり「語り口の巧さ」とか「脚本の完全さ(破綻の無さ)」、「絶妙な台詞の巧さ」ってのも大きな特徴だ。役者のアドリブなどは一切無く、絶妙の間やドモる感じなども全て脚本にきっちり書いてあって、それを自ら監督して編集までやっちゃうっていう、映画作りの全行程を完璧にコントロールするタイプの作家監督であることも、忘れちゃいけない。全てをコントロールされた映画ゆえの退屈さってのもあると思うし、いや素朴に考えて、そんなことをコンスタントにできる天才を、ただただ尊敬するべきかもしれない。あと、サム・ライミと共有する「シェイキーカム(メガ・ドリー)」=例えば遠くから障害物を乗り越えて登場人物の口まで一気に迫るような撮影手法についても、専売特許がありそうなんだけど、そう派手なカメラワークというよりは映画を面白く見せる地道な工夫のような気もするので、特記することでもないかもなぁ……。

と、やっぱりだんだん熱く語りそうな気配になってきたので、もうやめよう。どうも結論らしい結論のでない「コーエン兄弟監督の映画」についてのお話になってしまった。やっぱり「何か」肝心なことが語れてない気がするんだけどなぁ……。わからん。ま、いいか。「きっちり作った、おバカなホラ話をじっくり愉しむ映画」ってのが、ひとまずの結論かな。彼らの作品をまだ観たことない人は、『オー・ブラザー!』だけでも劇場で観てみてね。


付録 【コーエン兄弟の略歴と作品】
コーエン兄弟の出身はアメリカ・ミネソタ州ミネアポリス(『ファーゴ』に出てくる地方都市だ)。兄ジョエルが1954年11月29日、弟イーサンが1957年9月21日生まれ。ユダヤ系で、両親は共に大学教授という環境で育った。ジョエルが8歳の時に8mmカメラを手に入れ、兄弟でTV番組のパロディを撮ったりしていたそうだ。

参考に同世代のアーティストを並べてみると、SF以外の短篇作品に同じ匂いを感じる漫画家の大友克洋が54年生まれ。映画に限ると、例えばジュネ&キャロ(『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』)は、『エイリアン4』『アメリ』を単独で撮ったジャン=ピエール・ジュネが53年、マーク・キャロが56年生まれ。ちなみにティム・バートンが58年生まれ、リュック・ベッソンが59年生まれだ(カンケーないけど小林よしのりが53年生まれで浅田彰が57年生まれ)。と、ここらへんが同世代だな。ついでに作風(特に画質とか美術)の影響がチラリとみられるテリー・ギリアム(『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』『ラスベガスをやっつけろ』など)は40年生まれ、悪意や完璧主義が相似のピ−ター・グリーナウェイ(『ZOO』『建築家の腹』『コックと泥棒、その妻と愛人』など)は42年生まれ、同じく悪趣味な感覚が通底するデイヴィッド・リンチは46年生まれ。コーエン兄弟作品『バートン・フィンク』の閉所恐怖症感覚への影響をやたら指摘されてたロマン・ポランスキーは33年生まれ、コメディ志向のユダヤ系って共通項で比較されるウディ・アレンは35年生まれ。コーエン兄弟より若い連中で比較されるのは、『KAFKA 迷宮の悪夢』のスティーヴン・ソダーバーグ(他に『セックスと嘘とビデオテープ』『エリン・ブロコビッチ』『トラフィック』など)やクエンティン・タランティーノ(『レザボア・ドッグス』『パルプ・フィクション』など)、二人とも63年生まれだ。いかん。同世代じゃなくなってる、しかも世代論ネタは字数を食い過ぎる……略歴に戻ろう。

長じてジョエルはニューヨーク大学映画学科に入学、3つ下のイーサンはプリンストン大学で哲学を専攻。80年にイーサンがNYにきて兄弟で同居を開始。ジョエルはサム・ライミ監督の低予算ホラー『死霊のはらわた』(83)の編集助手など映画の仕事を、イーサンはメイシーズ・デパートで働きながら脚本を書き始める。この頃二人で書いた脚本のうちの1本が、サム・ライミ第2作『XYZマーダーズ』(85)だったりする。彼らの処女作『ブラッドシンプル』も、すでに80年に共同で脚本を書き上げていたものだ。これを81年に製作開始、82年10月に撮影して83年に編集、完成したのは84年。だけど配給会社探しに手こずって、85年にやっと公開。これが話題を呼んでロングランとなり、ナショナル・ボード・オブ・レヴュー作品賞を受賞。タイム誌やワシントン・ポスト紙などのベストテンにも選ばれ、兄弟の名はインディーズ映画界の寵児として一躍有名になる。

以後、製作は弟イーサン、監督は兄ジョエル、脚本は2人の共同というスタイルで、スクリューボールなクライム・コメディである第2作『赤ちゃん泥棒』(87)、フィルム・ノワール形式の第3作『ミラーズ・クロッシング』(90)を発表、往年のジャンル映画の容れ物を使いつつブラック・ユーモアで今風に味付けしたメタな作風を確立する。初のハリウッド進出作品である第4作『バートン・フィンク』(91)は、不条理な心理ドラマに連続猟奇殺人鬼が絡む怪作ながら、文芸映画というかアート系ジャンルの香りもあってか、カンヌ国際映画祭の作品賞パルムドール、監督賞、主演男優賞(ジョン・タートゥーロ)の主要三部門を独占、アメリカでもアカデミー賞三部門ノミネートを始め各批評家賞の部門賞を獲得した。ついで長年あたためていたというメタ・スクリューボールコメディ『未来は今』(94)を、ジョエル・シルヴァー製作協力のもとにワーナー・ブラザーズ映画として発表。脚本と第2班監督には盟友サム・ライミも参加(宣伝部員役でシルエット出演も)。が、この初の大予算メジャー作は賛否が割れて興行的に苦戦した模様。その後、低予算に戻って第6作『ファーゴ』(96)を発表。実話を基にしたという小さな犯罪映画だが、話の焦点の合わせ方やヘンなシーンを大仰に盛り上げたりするバランスが可笑しくて哀しいってクセモノだ。カンヌ国際映画祭監督賞、アカデミー賞最優秀脚本賞と主演女優賞(ジョエルの妻で主演を務めたフランシス・マクドーマンド)を受賞した。続いて湾岸戦争時のLAを舞台にした第7作『ビッグ・リボウスキ』(98)を発表。ヒッピー崩れのボーリング愛好中年(無職)が、金持ち連中の金銭絡みの争いに巻き込まれて私立探偵もどきを演じるハメになり、しかも幻想のボーリング・ミュージカル・シーンにまで出演する。またしても怪作だ。そして2000年、懐かしの30年代アメリカ南部を舞台にした珍道中コメディ『オー・ブラザー!』を発表。大好評で迎えられ、もはや「円熟の境地」とも評されたりして今日に至るのだった。

text:梶浦秀麿