今回紹介するシアターが「ブルーイン」と呼ばれるのは、何もクマさんと関連している訳ではない。この名前は、映画館の直ぐ側に立つ大学、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)のマスコット名に起因する。では、なぜUCLAのマスコットがクマちゃんなのか?それは、熊はカリフォルニア州の動物であり、そのためカリフォルニア州立大学の多くは、熊をマスコットとして使っているからなのだ。カリフォルニア大学の本校にあたるバークレー校は、「ゴールデン・ベア」(カッコイイ!)。その分校にあたるUCLAは、こぐまちゃん(……かわいい?)という訳である。 そして何を隠そう、UCLAは多くの著名映画関係者を輩出したことでも有名なのだ。監督では、5度のアカデミー受賞者であるフランシス・フォード・コッポラ、作曲家では、こちらも5度アカデミーを受賞しているジョン・ウィリアムズ、そして俳優では、“ハリウッドのアイコン”と呼ばれ絶大なカリスマ性を誇ったジェームス・ディーンと、まさに各分野で歴史に名を刻む巨頭たちがずらり名を連ねる。そして彼らも、在学中には恐らく……いや、間違いなくこの映画館で多くの名画を鑑賞し、ときに感銘を受け、ときに批評し、ときに打ちのめされ……そうして、未来への礎[いしずえ]を築いていったはずだ。 この仲良く立ち並ぶ二つの映画館はロサンゼルスでも有数の歴史を誇り、しかも両方ともに単館スクリーンという贅沢感が買われてか、昔からプレミアショーの会場として愛用されてきた。古くは『わが谷は緑なりき』、最近では『“スター・ウォーズ” エピソード|||/シスの復習』や『バッドマン ビギンズ』などの大作、さらには『スパイダーマン2』公開の際には、二館両方を使っての大々的なプレミアショーが展開されたのだ。 |
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本当のことを言うと、わたしがこの映画を観たいと思った最大の理由は、役所広司や菊池凛子といった日本人俳優が出演していたからである。だが実際に観てみると、「この映画を観る場所として、南カリフォルニア以上に適切な場所は無い!」と、LAにて同作を観られた僥倖[ぎょうこう]を嬉しく思った。特に、南カリフォルニアにて暮らす日本人であるわたしには、あらゆる方面で自己の体験や経験とリンクする部分が多かったのだ。 舞台のひとつは、モロッコ。山岳地帯で山羊を飼育し生計を立てる一家は、ジャッカルの脅威から山羊を護るため一丁のライフルを購入し、そのライフルを山羊番である二人の息子に託す。幼い少年たちは、ライフルの性能を試してみたいという好奇心から、遥か眼下を走るツアーバスに向けて発砲するが、不幸にもその銃弾は、旅行中のアメリカ人女性(ケイト・ブランシェット)に当たってしまうのだった。 襲撃された女性の夫(ブラッド・ピット)は、一刻も早く妻を病院に連れて行きたい一心で奔走するも、言葉も文化も国家システムも異なる地では全てが思い通りに進まず、苛立ちと焦燥感、そして絶望感を募らせていく。その一方で、自分たちの軽はずみな行為が人命を脅かしてしまった事実に、ゴート飼いの少年たちは驚き、焦り、後悔し、そしてその事実を知った父親は悲嘆にくれる。 これら先述の3つの挿話には明確な相関関係が見られるのだが、それらとやや独立して存在するのが、東京のエピソードだ。東京で展開される物語は、反抗期/思春期を迎えた聾唖[ろうあ]の女子高校生が、父親や世間そのものへの反発心を募らせる様が描かれている。ただでさえ難しい年頃、そして聾唖という過酷な状況に加え、彼女は母親が自殺したという悲劇的な過去まで抱えている。それでも少女は、同じく聾唖の友人たちと高校生活を満喫しているかのように見え、他の同世代の女の子たちと同じように異性への興味も示していく。だが、周囲に多くの人がいることで、逆説的に証明される自身の孤独。光と人と雑踏が沸き返る街中を、ただひとり音のない世界として彷徨する少女の孤立感や渇望は、東京の喧騒を知っている者にとってあまりに痛すぎる。 ちなみに、この聾唖の少女を演じる菊池凛子の存在感は名優揃いの今作中でも際立っており、多くの批評家たちも「抜群の演技力」「美しい」と絶賛。早くも、オスカーの助演女優賞へのノミネートが確実視されているほどだ。(ただ、アメリカ人の目にはともかく、同じ日本人の自分にとって、当年24歳の菊池が“女子高生”というのはかなりムリがある……と感じたことだけ加えておく) 突如として変化した周囲の景色や空気に、子供の一人が「ここはどこ?」とたずねる。帰ってきた「メキシコだよ」という返事に、少年は「ボクのママは、メキシコは危険な場所だって言ってたよ」と何の罪悪感もなく答えるのだが、その言葉を聞いた甥は「何しろ、メキシコ人だらけだからな!」と、陽気に返すのだ。 ロサンゼルスやサンディエゴなどの都市では、レストランやスーパーの従業員の大半は、メキシコ人である。そもそもロサンゼルスやサンディエゴにおける人口の半数近くはヒスパニックであり、その大多数は重要な労働力であるのだから、この両都市はメキシコからの移民(例えそれが合法であれ違法であれ)無しには機能しないのが現実なのだ。映画内でも、おそらく中流以上に座しているであろうブラピ&ケイト夫妻も、メキシコ人(違法移民)の女性をベビーシッターとして雇っているのだから。 このベビーシッターの女性と雇用者のアメリカ人夫妻、そして子供たちの関係は至って良好に見える。夫婦は、子供を預けて長期旅行に出かけるほどに彼女のことを信頼しているし、子供たちも彼女のことを慕っている。もちろんベビーシッターも、実の親もかくやという深い愛情を子供たちに注いでいる。また、ベビーシッターは子供たちにスペイン語で語りかけ、子供たちはその言葉を理解し英語で返すのだが、このような光景は、実際にサンディエゴに行くと普通に目にする日常だ。個人レベルでは、アメリカ人とメキシコ人の間に垣根など存在しないように見える。 一連の“メキシコ・ジョーク”で起きた笑いは、「生まれた環境や操る言葉が違うし、そもそも他人なのだから、理解できない部分があるのは当然だ」という諦念[ていねん]の産物といえるだろう。だがその諦念は、同時に「どんなに文化や価値観が異なっても、同じ人間なのだからどこかで理解しあえるはず」という希望と表裏一体でもある。 この『BABEL』(バベル)の登場人物たちのもとには、次から次へと、それこそ不運のドミノ倒しのごとく辛い出来事が降りかかり、観ている側としては「もう勘弁してくれ!」と叫びたくなるほどだ。だが映画を観終わった後、散々痛めつけられたはずの心に、ポッと優しく温かい想いが燈る。 それは最後、人間関係のネガティブ要素に埋め尽くされていたこの作品が、「それでも、お互い理解できるはずだ」という希望の側に帰着するからだ。 |
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