[ダスト] Dust
2002年7月13日より恵比寿ガーデンシネマにて公開

監督・脚本:ミルチョ・マンチェフスキー/出演:ジョセフ・ファインズ、デヴィッド・ウェンハム、エイドリアン・レスター、アンヌ・ブロシェ、ニコリーナ・クジャカ、ローズマリー・マーフイー、ウラード・ヨハノフスキ、サラエティン・ビラール他
(2001年/イギリス+ドイツ+イタリア+マケドニア/2時間4分/配給:松竹/宣伝:樂舎)

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(C)History Dreams/ena Film/Fandango 2001
【STORY】
オープニングは古い新聞記事のコラージュ、八百屋の店先のアップ、チャイナタウンらしき夜の街の風景。カメラはある雑居ビルの窓を覗いて上階へと向かう……怪しげな店、後背位でヤってる部屋とかを経て、最上階の窓のカーテンを黒人青年エッジ(エイドリアン・レスター)が閉める。空き巣に入った彼は、部屋中の古ぼけた写真や、箱の中の「マケドニアでトルコ軍、住民虐殺」という新聞記事の切り抜きなどを見つけるが、肝心の金がない。と、留守だと思ってたのに住人の老婆アンジェラ(ローズマリー・マーフィー)とバッタリ。殴って脅すのだが反対に骨董銃で鼻をへし折られてしまう。逃げようとする彼を、「私の話を聞けば金貨の在処を教える」と示唆する彼女は、百年前のある兄弟にまつわる数奇な物語を語り始めるのだった……。1900年、アメリカ西部にルーク(デヴィッド・ウェンハム)とイライジャ(ジョセフ・ファインズ)という兄弟がいた。キレ易いが銃の名手で無駄な殺しはしないという兄ルークと、そんな兄を愛しているが、兄からはいつも聖書を暗唱する癖をたしなめられる弟イライジャ。二人は古き良きアメリカのカウボーイにして、賞金稼ぎだった。ルークに売春宿に連れてこられたイライジャは、新顔のフランス人娼婦リリス(アンヌ・ブロシェ)に一目惚れして童貞を捧げ、ついには結婚してしまう。彼らの最初の娘サラの産後すぐの死の後、リリスを弟にとられたと感じていたルークは、あるきっかけで失踪し、さらに1年後ヨーロッパへと旅立つ。フロイトと同じ船で1902年のパリに辿り着いたルークは、まだ黎明期だった映画に驚き、そのニュース・フィルムで戦乱のバルカン半島を知る。マケドニアでは革命組織がオスマントルコ軍に抵抗し、その頭目“教師”(ウラード・ヨハノフスキ)には多額の賞金がかけられていたのだ。愛用の拳銃“ルカの福音”を携え、ルークは賞金稼ぎのならず者達と共にマケドニアを転戦する。そんなルークを追って、イライジャも単身マケドニアにやってきた。ある時、一度は“教師”を追いつめるものの、しくじったルークを、イライジャが撃つ。何故兄を……? 傷を負ってトルコ軍の少佐(サラエティン・ビラール)の元に運ばれたルークは、イライジャと引き合わされ、トルコ兵達に囲まれているのも忘れて口論を始め、銃を向け合う!……と、老婆の物語は突然中断する。心臓発作を起こしたのだ。隙に乗じて逃げようとするが、思い直して救急車を呼ぶエッジ。男女二人の悪徳警官に多額の金を要求されている彼は、どうしても金貨の在処を聞かなきゃいけないのだ。だがそれだけではなかった。エッジは二人の兄弟の物語に圧倒されてもいたのだ。「息子だ」と見舞いながら、話の続きをせがむエッジに、危篤状態でありながら憎まれ口を叩きつつ、アンジェラは物語を再開する。トルコ軍陣地での顛末や、山奥の村でルークが出会った美しい娘ネダ(ニコリーナ・クジャカ)のこと、そして“教師”の希望、トルコ軍との闘い、イライジャとルークの確執の核心……。物語に乗り移られたエッジは、アンジェラの娘時代の断片をルークと共に幻視し、そしてついにはアンジェラの最期の願いを引き継ぎ、自ら語り手となって兄弟の物語を紡いでゆく……。

【REVIEW】
借金で首が回らなくなったヘタレな黒人青年エッジが、押し入ったアパートの住人である老婆に逆に銃で脅されて、彼女の昔話を無理やり聞かされる----ってな枠組みで、現代(2000年)のNYから100年前、まだ飛行機もまともに飛んでいなかった時代のアメリカ西部、パリ、そしてマケドニアを舞台にした冒険譚が繰り広げられる。それは真実とも作り話ともつかないある兄弟の数奇な運命を巡る物語だ。いやあヘンテコだけど面白い! ヘンテコ最高! もう“ラテンアメリカ文学のマケドニア版”って感じの摩訶不思議な「マジック・リアリズム西部劇」なのである。戦闘シーンのゴチャゴチャ感はちょっと混乱するけど、そのラフっぽさがリアルでエグい感じなのが味になってるので、ま、いいか。いや、夜のNYの雑多な喧騒、そしてマケドニアの大地と空と岩山の壮麗な風景なんてのも素晴らしいのだった。映画は本当の話かどうかはわからないって感じで語られるのだけど、背景にはオスマントルコ帝国末期のマケドニア革命(同時期にはメキシコ革命も)ってのがあり、有史以来ヨーロッパとアジアが激しくせめぎ合うバルカン半島の、ユダヤ人の歴史にも勝る住民迫害と抵抗のそれがある。折しもここ10年ばかし東欧は再び大荒れで、この映画自体コソボ紛争時に作られたって事態も、ある種の「迫真性」を本作に与えている。え? 遠い国の戦争なんて興味ない? 何をおっしゃる、映画では、それとは全く関係ないはずだったNYスラム育ちの黒人に、悪徳警官が闊歩する「今ここ」もまた“同じ”であること=住民を支配しようとする権力と、それに抵抗する可能性が潜在していることを教える、そんなエピソードもチラリと描かれるのだ。だからもちろん、マケドニアの歴史なんて全く関係ないはずの僕らにも、この物語を続けて紡ぐ権利が、いやもとい「愉しみ」があるはずなのだ。劇場で衝撃を受けたら、“教師”とネダ(ナーダ=虚無か?)の「娘」の冒険活劇の続きを、夢想してみるってのもいいかもしれない。マケドニアの革命家の遺児が、全世界を抑圧者から解放するまで----なんて現実にはなかった20世紀を物語ってみても、もちろん全然構わないのだから……。

余談。主要登場人物である兄弟の名は、劇中で愛用の銃の名として示唆されるように、福音伝道者ルカ(=ルーク)と預言者エリヤ(=イライジャ)であり、ダミ声で笑うように嬌声をあげる(可哀想な)リリスは、聖書外典でアダムのイヴ以前の妻にして全ての悪魔(とされる者)の母として出てくる名だ。アンジェラはAngel=天使(メッセンジャー)だし、とすれば黒人の癖にラップとか大嫌いなエッジというのは、映画『ぼくの神さま』の原題でもあった「Edges of the Lord主の栄光の及ぶ世界の縁」の「フチ」と考えられる。“教師”は(実際、マケドニア独立運動の革命組織VIMROの初期メンバーに教職者が多かったとはいえ)イエス・キリストの別名でもあった。ゆえに具体的には「骨壺の中の灰」を指すらしき本作タイトル『ダスト』とは人間そのもの=「塵から生まれ塵に還るもの」という聖書的な意味を持っているのだ。もっとも最近、ネットで見つけた作家リチャード・ブローティガンについてのエッセイを読んでたら、「現実への諦めの後のAmerican Dust(アメリカン・ダスト)達への優しいエールを、ブローティガンは描き続けたのだ」(大意)ってな一節があって、ということは「ダスト」とは特に(僕を含めた)下層民、無名の庶民のことを指す、とも考えたくなったりした。僕らは歴史になんて残らずに、塵のように消える。でも物語は残るのだ----そう思って希望を持つことを、この映画は励ますのだ。現実にはささやかだったかもしれない、惨めな結末だったかもしれない二人の兄弟の物語が、大仰なホラ話の文学的伝統を持つアメリカで、ラテンアメリカ文学をさらにエキゾチックに(笑)したようなマケドニアンな伝説、一大叙事詩として語られる----ということの意味は、そこにこそあるのだろう。悲惨な現実についての、ニヒリスティック(無神論的?)な現状認識を突き詰めた果てにある、聖書再解釈(パロディ)めいた命名法の面白さは、新たな豊かな神話創造と正しく(優しく)アナーキィな信仰告白とを表明しているのだ。なんて深読みしたりして。

監督はマケドニア出身、南イリノイ大で映画を学んだミルチョ・マンチェフスキー。長編デビュー作、現代のマケドニアとロンドンを舞台にした3つのラブストーリーを交錯させたオムニバス『ビフォア・ザ・レイン』(94)で、ベネチア国際映画祭金獅子賞を含む10部門を独占、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされ、各国で30以上の賞を獲得した。その彼の7年ぶりの第2作である。キャストも国際的で、弟イライジャを『恋に落ちたシェイクスピア』『エリザベス』『キリング・ミー・ソフトリー』の英国の若手実力派ジョセフ・ファインズ、兄ルークを『ムーラン・ルージュ』の女装のボヘミアンにして『ロード・オブ・ザ・リング ニつの塔』でハリウッド進出のオーストラリア俳優デヴィッド・ウェンハムが演じている他、気丈な老女アンジェラを『アラバマ物語』『誘惑のアフロディーテ』などの実力派女優ローズマリー・マーフィー、エッジ役を『パーフェクト・カップル』でシカゴ映画批評家協会最有望新人賞を受賞したエイドリアン・レスター、リリス役を『めぐり逢う朝』『シラノ・ド・ベルジュラック』のフランス人女優アンヌ・ブロシェ、ルークを救う山岳村の娘ネダを『ウエルカム・トゥ・サラエボ』で映画デビューしたマケドニア出身の新進女優ニコリーナ・クジャカがそれぞれ好演してみせているのだった。ちなみに本作は第58回ベネチア国際映画祭オープニング作品となり、第14回東京国際映画祭特別招待作品としても上映されている。

Text:梶浦秀麿

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