Swimming Pool
南仏プロヴァンスの別荘を舞台に、静かに展開する心理サスペンス。
ニ大女優競演のメタ・ミステリ映画は、サニエが謎を解く鍵……?

REVIEW:
個人的に大ファンのリュディヴィーヌ・サニエが凄い!…って『ピーター・パン』と同じこと言ってたりするが、出演作が続いてるんだから仕方ない。かつて『愛の嵐』で一世を風靡した大・大・大女優シャーロット・ランプリング(オゾン監督とは前作『まぼろし』で組んでる)を相手に、ミステリアスで奔放な「若い女」役として、堂々と渡りあってみせるサニエちんに、まず注目なのだ。

ポワンって感じのゆるい裸体で迫る『焼け石に水』、ヒョロっと痩せてボーイッシュな『8人の女たち』、原作通りちょい太めで表情豊かな妖精を演じた『ピーター・パン』、そして奔放な不良娘として肉感的な見事なプロポーションを披露する本作(ついでに次作『可愛いリリィ』では監督に「太れ」と言われて3週間でまたポワンとなったらしい)……と、観る度に体型も印象も変えるサニエちん。そんな彼女の絶妙な「演技」こそが、本作の謎を解く鍵のひとつなのだ。まあ騙されたと思って、騙されてもらおう(笑)。

さて。ランプリング演じる英国の人気ミステリ作家サラ・モートンは、“ドーウェル警部”シリーズの新作が書けずにいた。新人の売り出しに忙しい出版社の社長ジョンは、南仏プロヴァンスにある彼の別荘での執筆を薦める。後から追って彼も行く、という素振りに少し色めき、ロンドンから南仏へと向かうサラ。オフシーズンの静かな避暑地、村に一軒の食堂にはハンサムな給仕もいて、バカンス気分を盛り立てる。物憂いほどの静かな日々に寛ぎながら、創作意欲を取り戻してゆく彼女だったが、来ると約束したジョンは来ない。と、予告もなく代わりに現われたのはジョンの娘ジュリーだった。食事は食い散らかし、お酒も出しっ放し、おまけに毎晩違う男を連れ込むような自堕落な娘の闖入によって生活を掻き乱され、苛立つサラ。ビニールを被せてあった庭のプールを管理人の老人に開けさせ、そこで裸で泳ぐジュリーは、若く溌溂とした美しさを誇示して眩しいくらいだ。その彼女のお腹に古い傷を見つけ、彼女の秘密に惹かれたサラは、最初は意地悪な気分で彼女を調べ出し、それを執筆用パソコンにメモり始める。小説家志望だった母とジョンの不幸な結婚生活を聞き出し、同情にも似た気分を抱くサラ。ジュリーの方も観察されているのを知ってか知らずか、挑発的に振る舞うようになる。やがて不慮の殺人事件に巻き込まれながらも、サラの妄念に似た想いは募り……というのが大枠の話。

タイトルはこの別荘の庭にある個人用プールを指すが、ラストでサラが出す『スイミング・プール』という新作小説のことでもある、というかこの小説の中身が何なのか?が大きな謎として観客に迫ってくるのは終幕の大ドンデン返しの後、呆然としちゃってから、なんであって、単にこの映画がその小説の中身ってワケじゃない入れ子構造のメタ・ミステリになってるらしいのがミソなのだ。

おっと。上記のあらすじに書き忘れたけど、ここで出版社社長の娘ジュリーを演じているのがリュディヴィーヌ・サニエなんだけど……ってのが仕掛けのひとつ。とにかくメタ仕掛けのミステリに、思うさま幻惑されてみて欲しい。できれば観終わった後で議論して、謎に迫ってみるのがベストだ。

はてさて余談というか……。観ていて僕はポール・オースターの『シティ・オブ・グラス』などの仕掛けをちょっと思い出したり(ああアゴタ・クリストフ『悪童日記』連作でもいいけど)、ある場面で唐突に「おおデイヴィッド・リンチかい!」とか独りよがりなウケ方をしてたんだけど、そういう評言はあまり見かけなかった。ダ・ヴィンチ6月号の馬場広信さんのレヴューだと、『スイミング・プール』に絡めてカポーティ『冷血』にハメット『血の収穫』にチャンドラーの『プレイバック』→村上春樹『羊をめぐる冒険』と、ミステリと純文学の境界作品(SFマガジンで言う「スプロール・フィクション」だな)を挙げ、最後に福永武彦『死の島』で締めてるんだけど……ううむ、そうくるなら何でオースターが入らん?と悩んでしまった。ヒロシマが絡む『死の島』ほど社会派なテーマでもないような気もするし、でもかと言って『シティ・オブ・グラス』他のNY三部作ほどツジツマが合うワケでも無いメタ・ミステリ構造の映画ではあるんだけどなぁ……とか考えつつも、一抹の不安も感じるのであった。つまり、もしかして僕の推理も間違ってるかもなぁ、という不安だ。映画って一人で観てるとトンデモ説をコネくり出してしまうもの(例えば宮台真司や副島隆彦の書きぶりは、自らの社会学的な問題意識に引き寄せ過ぎた断言がよくあって、トンデモに思えたりするのも多いし)。だから観てしばらくしてから同じ映画について話し合っても細部の読み違いがあったりして、でもその場で確認できる小説と違って細かい台詞や描写とかは忘れてるから、話がまとまらないなんてこともよくあるのだ。で、ネットの某所やらクレア6月号の妙に言い切り型のミニ・レヴュー(Atsuko Tatsutaさん)などが「避暑地のジュリーの存在は全てサラの妄想」説を主張していて、ちょっとビックリしたのだった。あの結末のドンデン返しはそんなシンプルな解釈では解ききれないし、なによりそれじゃあ面白くも何ともないじゃんと腹も立ったり。が……詳しくは書かないが、なんとオゾン監督自身によるノベライズ(アーティストハウス刊)では、監督自身による「謎解き」が極めて説明的にしてあって、それを読んでさらに愕然としてしまった。気分的には「え、そんなチンプなミステリを観せられてたの? ううガックシ」って感じ。映画の方はかなり広がりのある解釈を許す豊かなものだったはずなのに、小説版はどうにもつまらない「解決編」がついてて、僕はすぐにそれではツジツマの合わない場面(映画的にはどこまで客観描写なのかというフェア/アンフェアに関わる問題)とかを反証例として言い立てたくもなる(ノベライズの訳者あとがきで佐野晶さんが小説版のツジツマ合わせを試みているが、これも微妙に齟齬があるようで納得いかん部分もあるし)。ま、作り手自身がそういう意図なら、それが「正解」なのかなぁというトホホな気分にもなるのだけれど、この映画は監督が小説版で示したようなオチでは回収しきれない余剰部分を持っているというのが、僕の(これもトンデモに思われるかもだけど)個人的見解である。詳しくはネタバレ過ぎるので書けないのがもどかしいんだけれど、やはり二人の女優の存在感、特にサニエちん演じるジュリーの迫真性が、シナリオを越えた過剰な効果としてメタ・ミステリ的に機能している、と敢えて主張したいんだけど……。はてさて、この僕のレヴューが読者をミスリードさせる罠になっているかも、とも言い添えて置いて、後は皆さんの観劇後の推理に期待してみよう。

Text:Hidemaro Kajiura

Copyright © 2004 UNZIP.
『スイミング・プール』
2004年5月15日からシネマライズ、シネシャンテほか全国順次公開
(2003年/フランス・イギリス/1時間42分/配給:ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ)

CAST&CREW:
監督・脚本:フランソワ・オゾン
出演:シャーロット・ランプリング、リュディヴィーヌ・サニエ、チャールズ・ダンス、マルク・ファヨ−ル、ジャン=マリ−・ラムール、ミレイユ・モセほか

REVIEWER:
梶浦秀麿

INTERNAL LINK:
コラム“フランソワ・オゾン監督”伊藤 高

EXTERNAL LINK:
『スイミング・プール』公式サイト

BOOK:
スイミング・プール
フランソワ・オゾン著/アーティストハウスパブリッシャーズ刊

DVD:
cover フランソワ・オゾン DVD-BOX
フランソワ・オゾンの『まぼろし』以前の作品を収めた作品集。