ついでのサリンジャー話

ついでに思いつき。エミネムの現在の成功までを描くわけでもない、まだその成功の微かな予感しか描かれない『8マイル』は、だから単純なヒーローの系譜でも、アウトロー・ヒーローの系譜とも違う、ささやかな自己実現を成し遂げる「普通の人の代表選手」としての青年Bラビットの物語でしかない、とも言える。彼にあるのは「不幸」と「スキル」、映画の中で訪れる「転機=チャンス」に、この2つで立ち向かってゆくことになる。

その「スキル」ってのは、ある意味「悪口の才能」だ。ラップ・バトルは口喧嘩の上手さが勝敗を決するので、いかに巧みに相手の弱点をつくか、いかにそれを社会批判にまで高めるか、なんてのが重要だ。ところで「口汚い悪口」とか「社会批判」っていえば、最近、新訳されたサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(旧題:ライ麦畑でつかまえて)』のホールデン少年のことを思い出した。今では映画や小説でも普通に使われてる罵倒語の多用によって、当時は猛烈な批判にさらされ、いまだに禁書扱いの州もあるというこの小説。その「行儀の悪い言葉使い」で表現された「反社会性」ってのは、エミネムに、というかこの映画『8マイル』に通じるんじゃないかって、ふと思ったのだ。現状の社会の欺瞞や嘘臭さを糾弾する巧みな語り口ってのが『キャッチャー』の真骨頂であり、それは純真な子供の正義感だったり反抗心だったりを屈折させたものだ。この小説の主人公ホールデン少年の天才的な口の悪さが、悪書扱いにもつながるワケだけども、それでも今も読み継がれているのは、そこには多くの若者を惹きつける何らかの真実があったからだと思う。で、そうした青春文学の、遠い遠い末裔として、映画『8マイル』があるんじゃないか……ってのは、これもまた「穿った見方」なのかなぁ。

Text:梶浦秀麿

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