『ロッキー』と『8マイル』の相違点:1

そこまでみんな似てるって言うのならば、今度は相違点を探したくなる。いやボクシングとMCバトルという自明の違い(ないし近似)なんてのじゃなくて、物語構造上の差異だ。酒浸りの30歳のチンピラ・ボクサーって始まりは、酔っ払いに対して過敏に神経質に見える20歳前後のラッパー志望者=Bラビットと似ているか? あるいは女に対してシャイなロッキーと、適度にスレてる(でも愛を真面目に考えてはる)Bラビットとの微妙な違いは? さらに立ち直って一念発起、ホモっぽくもある訓練に励む『ロッキー』のようなシーンは『8マイル』には無い。あるのは地道な才能の研鑽シーンがチラっとだけで、結局「ふんぎり」というか溜まりに溜まった抑圧に即されての「決心/決意」のみが彼を成功への一歩に導く。はたまた「ベストを尽くすこと」と「恋愛の成就」が「判定負け」という事実を凌駕する『ロッキー』の結末と、『8マイル』のオチ(内緒)の印象はずいぶん違う…‥。なのについ「同じだ」と言ってしまえる感じってなんだろう? しかも『ロッキー』は続編が『5』まであるワケで(『6』もあるかも?)……ってな調子で『ロッキー』論をコレ以上する余裕は無い。ので、続けて真面目に考察したければココとかココあたりでヒントをもらって復習してもらうとして……。あ、それより町山智浩『映画の見方がわかる本』(洋泉社)に必読の『ロッキー』論(映画秘宝02年9月号掲載分)があるので、偏見のある人はそれを読んで目からウロコを落としてもらうことにして……。

たぶん似ているのは、まず薄汚れた街並みなど、ディテール描写のリアルな印象だ。『8マイル』が95年のデトロイトなら『ロッキー』は76年のフィラデルフィアの、荒れ果てた街がきっちり描写され、両作のキャラ達の荒んだ心境も絵空事ではないリアリティがある。うだつのあがらない端役俳優だった30歳前のスタローンが、自らのリアルな境遇を脚本に叩き込んで、しかも自ら主役を演じたのが『ロッキー』(5作全部の脚本を書き、2〜3作は監督もしている)なら、脚本こそ手掛けていないがエミネムの自伝に近い作品にエミネム自らが主演しているのが『8マイル』だ。さらに、映画の成功がスタローン自身のサクセス・ストーリーとなったのが『ロッキー』なら、エミネム自身のサクセスを踏まえた映画が『8マイル』、ってな舞台裏のちょっと反転した相似もある(しかも『8マイル』はR-17ながらも全米公開時に初登場No1を記録しているから、さらなるサクセスでもあると言える)。そしてやはり、なにより“現状を打破するために闘う”という「男気」エッセンスそのものが、両者にあるのが大きいんだろう。この「うおおっ燃える〜っ」という感じ、エモーショナルな高揚感が、観る者に「似てる」って言わせるのだ。「ラップ版『ロッキー』」とかという評が跋扈することになるのは、この“闘志”への共感ってのが大きいんではなかろうか。いや、となると「アクション映画」扱いってのも非常に正しいことになる、のか? つい『ファイトクラブ』やら『あずみ』やらが浮かんできて、またしてもムム、と唸ってしまう僕なのだが。

『ロッキー』と『8マイル』の相違点:2

ところで、ある映画が別の映画に似ているとは、どういうことなんだろう? リメイクとかパクリとか、「時代や舞台や小道具を置き換えた」ってのとか、そういう類いの話じゃ無い。『ロッキー』と『8マイル』のような、“時代精神”が似ているとでもいえばいいのか、そういう感覚のことだ。先のウェイン町山智浩大将の『ロッキー』論によると、1976年の『ロッキー』は、それまでのアウトロー系=反体制アンチ・ヒーローが主役のアメリカン・ニューシネマ(『俺たちに明日はない』とか『イージー・ライダー』とかね)への反歌=「反動」として登場したようだ。腐敗した現状を体制のせいにして反抗しながら破滅してゆく英雄像から、負け犬=体制の周縁で足掻く「人生の敗者」が主役の「敗者復活」サクセス・ストーリーへの移行期を象徴する英雄像への転換が、この頃にあった。『ロッキー』ではまだ「勝利」への執着はなく「負けたとしても精一杯ベストを尽くせばいい、そして恋人との二人の世界に至上の価値を見い出そう」というものだった。だが、続編以降は『2』で「(心から信頼しあった恋人に乞われて)勝つ」ことが目的となり、『3』で(アメリカ市民としての黒人との)「友情」が顕彰され、ついに「アメリカという国を背負って闘い、ソ連に勝つ」という体制側のサクセス・ヒーローになってしまう(85年の『4』)。「みんな変われる」ってロッキーのアジにソ連の観衆も大喝采、数年後ついに米ソ冷戦が(アメリカにとって)ソ連の敗北として終結し、『ロッキー5』(90)では親子問題(父と子の愛)がクローズアップされ、ブッシュ・パパの湾岸戦争→クリントン政権下の「家族(国内)への回帰」→ブッシュJr.のアフガン・イラク攻撃へと続くアメリカの“時代精神”の「一面」を、図らずも(?)<ロッキー>シリーズが描き出してしまうことになるのだった。

『ロッキー』の翌年公開の、田舎者の農民ルーク・スカイウォーカーが救国の英雄になるという『スター・ウォーズ』(77)なども神話・ファンタジー型の王道サクセス・ストーリーで、これはたぶん<ハリー・ポッター>シリーズまで続くハッピーエンド娯楽活劇の最右翼、王道パターンとして定着した。味付けを変えたヒーローものも頻出している。もっとも町山大将は『ロッキー』論の最後で、シュワちゃんものやブルース・ウィリスものを「勧善懲悪」の「筋肉ヒーロー」ものとして、負け犬復活タイプやアンチ・ヒーロー達は「スクリーンから一掃された」とまとめるのだが、でも1st『ターミネーター』(84)のシュワちゃんはアンチ・ヒーローでは?とか、『ブレードランナー』(82)あたりからあるラッダイト系(機械打ち壊し運動的)作品群、それこそティム・バートン版『バットマン』を経て『マトリックス』まで続く「機械(orフリーク)対人間の対立や共存」などをモチーフにしたダークなSF映画群も台頭しているワケで、「(桃太郎の鬼退治パターンのような)神話時代に幼児退行してしまった」(町山)と一括りにするのは乱暴だと思うんだけど……。

ああ、やめておこうと思いつつ、つい町山大将の『ロッキー』論にこだわってしまった。いや確かに『ロッキー』以降のハリウッド大作映画はどれも同じプロットを使っているとかいう「穿った見方」があって(シナリオ作法など一面ではとても正しいが)、『8マイル』もそのそしりを受けそうな造りになってはいるので、その「穿った見方」の流れを検証しようとしたのだ。が、では『8マイル』は『ロッキー』に先祖返りしたカタチの、「負け犬がチャンスをつかんで、精一杯ベストを尽くしてサクセスする」って話なのかどうか? ま、その通りではある。で、じゃあ当時のニューシネマに相当するのが昨今のバイオレンスものとか悪趣味なホラーだって話なのかとか、今後は「国威掲揚」型の単純ヒーローものの流れが来るって話なのかというと、もう少し世界は複雑で……でもアメコミ・ヒーローものがアトラクション映画として量産されつつあるしなぁ…‥。

いや、ここで問題にすべきは、“現実が物語をなぞっていること”なのかもしれない。『8マイル』にはアメリカン・ドリームの体現者であるエミネムという現実の存在があって、物語の構造が「アメリカン・ドリームのサクセスもの」という虚構パターンに似ていようが、既にリアルさが保証されている。実際のエミネムは映画より3割り増しくらいワルだって意見もあるのだが、大筋において彼のデビューに至る経緯に嘘はない。というよりエミネムに先行する有名な黒人ラッパー達が歌ってきた「ストリートの酷い現実」なんてのは、ほとんど自ら経験したことでは無くて、伝聞や誇張、要するに嘘の場合が多いのに比べ、エミネムが歌ってきたのは紛れも無く彼が経験した本当の事だったりする、と映画秘宝6月号の長谷川町蔵の「サントラ千枚通し」に書いてあってビックリしたのだった。ラッパー達の映画出演が盛んなのは、もともとラップがハッタリ勝負の演劇的なものだからだ――って話にも納得できるし、売れてる黒人ラッパー達が実はイイトコのボンボンだったり大学出だったりするってのは、『8マイル』でも大事なネタになっていた。行儀の悪いストリート言葉で「怒り」や「反抗」のメッセージを捏造するヒップホップ界に、マジな「怒り」を持ち込んだのがエミネム、ってことか。だからそのリアルさに観客は感応するのだ。

しかし町山大将のこういう視点もある――『ロッキー』が、スポーツやファッションや音楽などで黒人の活躍がもてはやされカッコイイものとされた70年代前半のブラック・パワーへの“反歌”でもある――という指摘だ。1975年3月24日、ヘヴィ級世界統一チャンピオンの「黒人」ボクサー、モハメド・アリのタイトル防衛戦で、無名の「白人」ボクサー、チャック・ウェブナー(36歳)が「当て馬」的に対戦相手に選ばれたのだが、彼はまったく期待もされてなかったにも関わらず最終15ラウンドまで闘って、アリから一度ダウンを奪いすらし、TKO負けしたものの観客は惜しみ無く健闘を讃えたという。この「実話」=現実にあった名勝負が『ロッキー』のモデルだという。で、映画はかっこよくて強くて裕福そうな黒人ボクサーのアポロに、貧乏白人のロッキー(30歳)が挑むって構図になってる。そして『8マイル』は「黒人」文化であるヒップホップに貧乏「白人」が挑むって構図だとも言える。しかも『ロッキー』は実話にインスパイアされた虚構だが、『8マイル』は実話を少し美化して実話のヌシ自らが主役を演じている。うーむ。単純な人種対立図式で作品を観るのは不毛というか嫌なんで言及を避けてたんだけど、みんなが『ロッキー』と『8マイル』が似てるっていうのは、この構図=「白人が黒人に勝つ(少なくとも一矢報いる)」という白人貧困層の願望充足型ファンタジー(にして現実化アジテーション)というエグい見取り図を、両作から見て取っているのかもなぁって思ったりもしてしまったのだ。こう言ったら、ある人は「言わずもがなの当たり前のこと」って言うだろうし、別の人は「同じ感動の感触があるって言いたかっただけで、そんなこと考えもしなかったし、そんな差別的な(?)見方・考え方は間違ってる」と怒るかも知れない。実際に両作とも、二つの人種・文化の融和・相互浸透(フェアな競争)という「共存の物語」として“も”描かれているし。だから「この似方」を抽出するのはイジワルな視点でもあるのだが……。

それより不思議なのは“現実にインスパイアされて作られた物語を、また現実がなぞって、さらに物語化されること”だったり、そのどれもが少なくない感動を与えることだったりするのかもしれない。しかもここで起点となった現実の「無名ボクサーの意外な健闘」自体が、いわゆる感動を呼ぶ物語パターンのひとつをなぞるかのように展開したワケで……。つまり町山大将の大ワクの仮説――『ロッキー』以降のアメリカ大作映画の物語パターンが(桃太郎の鬼退治物語のような)「神話伝説」の類いに「幼児退行してしまった」――って見方も、一面正しいんだけど、例えばいくつかの普遍的な感動のモデル(神話原型)が何度も再発見されているのかも、とか、それらは周期的な流行があって、神話タイプごとに大衆の(イデオロギーも含んだ)世界観の変動に敏感に対応しているのかも、とかって方向で考えてみるのも面白いんではないだろうか。

神話英雄としてのエミネムが、アメリカの庶民=白人貧困層〜中流層を中心に何らかの希望を与え、その国内的な効果を超えて、例えば「自分との闘いに勝つ」とか「閉塞しつつある現状を機会をつかんで打破する」とかっていう英雄譚的な「原型」の感動が、全世界である程度共有される――という事態が、『8マイル』にはある。それは現実のサクセスに裏打ちされてリアルでもあり、わかりやすい物語原型になぞらえられて神話的でもあるのだ。この不思議な、虚構と現実の相互影響関係を巧みに活用した“魅力”が、『ロッキー』や『8マイル』にはあると思う。この辺の話も、(世界中に影響する)アメリカ文化の自己模倣の気配やら反動と革新の周期的交代リズムなんかを含めてもっと深入りすると面白そうなんだけど、これ以上は僕の手に余るので、後は各自で考えてみて欲しいのだった。

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