60年代から70年代のロックやポップミュージックが使われているということも理由なのかもしれないが、でもそれは64年のアメリカの地方が舞台で、映画の中で音楽が全面的に重要視された『アメリカン・グラフィティ』とはまったく違う感覚である。(『アメリカン・グラフィティ』はもちろんいい映画だし、あの映画の中で「only
you」が流れてくる瞬間なんて、まさにアメリカ的世界観を感じてしまう感動的な瞬間でもある。大好きな映画のひとつだけど。)
もし仮にこの映画の音楽的感覚と同じものをといわれたら、それはきっとウディ・アレンの一連の作品かもしれない。全体を通してノスタルジックな感覚。アメリカ人でありながら、アメリカンジョークなどとはほど遠い。神経質で、時にはひねくれたようなパロディやコメディ。なにごとにも自信がなくて、生きていくのが少し大変そうな人たち。そんな人たちが両方の映画の中に登場してくる。ウディ・アレンにおけるラルフ・ローレンのファッションスタイルにめがねといったように、この映画でも出てくる人たちのファッションスタイルもかなり固定されている。フィラ、アディダス、ラコステといった具合に。
映画の中でその役のキャラクターを伝えやすい小道具として、ファッション、部屋のインテリア、話し方といったように様々な要素がその映画の役者たちには設定される。ああ、この人はきっとこんな性格でこういう設定だから、きっとこういうファッションに違いない。こういう人はきっとこんな部屋にすんでいるだろう。そういった要素が映画の中で登場人物達をよりわかりやすくしている。「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」ではオープニングから、そういった情報が視覚にがんがんと入ってくる。音楽とナレーションとそして映像とが一緒になって構成されたそのオープニングはなかなか面白いのであるが。でもこのサウンドトラックを聞くまでは全然覚えていなかったといってもいい。音を聞いた瞬間に、頭の中のどこかで全ての要素が一瞬に繋がる。
話を戻そう。たった一曲の音楽を聞いただけで、こんなに全てを思い出させる映画の魅力って実に不思議ではないか。ロッキーのテーマを聞いて元気になる人はきっと『ロッキー』という映画を思い出しているからだろうし。
『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』で使われているのは60年代70年大のロックやポップである。音楽を担当したマーク・マザーズボーは80年代に話題になった「ディーヴォ」の創立メンバーである。テクノミュージック(いまのいわゆるテクノミュージックの前のテクノ)やパンク、ニューウェーブ、そしてロックのある意味一番楽しかった80年代的感覚で、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ではクラシックから、パンクからロックまでを使って、この映画というヴィジュアルに見えない(まさに見えない)聴覚に訴えかける映画の魅力を吹き込んでいる。個人的にはポールサイモンの曲「me
and julio down by the schoolyard」が使われているシーンは、先程の『アメリカン・グラフィティ』的に自分の歴史の中に残る感覚を脳裏に刻み込んだのかもしれないとおもっているのであるが。(私の中ではビートルズの「When
I'm Sixty-four」を聞くと空中に浮かぶ赤ちゃんの映像が浮かぶ『ガープの世界』の映像を思い出してしまうのがちょっと困っているのであるが)
同時にこのサウンドトラックのインナーデザインにはそれぞれのテネンバウムズ一家の部屋の写真だけが印刷されているが、なかなかいい感じである。デザインはおそらく海外のデザイナーだと思うが、この部屋の写真でもなんだか微妙に、こう頭の中のどこかの記憶がむずむずとしてくるのだ。
ちょうど季節が秋になって、少し肌寒くなってくる気配がしてきたが、そんなときにこのサウンドトラックを聞いたりなんかしたらいいのかもしれない。なんだか屋上でこっそりと煙草でも吸いたくなってくるような気分にきっとなることだろう。
テキスト:蜂賀 亨
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