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で、「科学的思考」とか「論理的思考」ってのも、本来いろんなパラメータ(媒介変数)を無視することで成立する仮構世界だ。ある限定的な状況でのみ論理体系が無矛盾になる世界。常識から類推されたはずの力学やらなんやらも、ある状態(コロラリー)でのみ正しいので、極微小の世界でしか通用しなかったり、マクロ過ぎる空間では新たな論理を組み立てなきゃいけなくなるのだ。このそれぞれを「パラレルワールドでは無矛盾な論理」って仮説にしちゃえば、SF者ならではの極端な相対主義的モラルの前提ができあがる。つまり、それぞれがそれぞれで正しいのだ。「ご都合主義」もそういうロジック・バランスで創られた世界だって認めてしまうワケ。

あ、そうそう。これまでの話の中で「多世界解釈」「可能世界論」と言ってるのは、厳密な使い方では無いことは注意しとかなくちゃいけないのだった。もともと「多世界解釈」ってのは量子力学という「科学的思考」分野での用語で、「可能世界論」ってのは様相論理学という「論理的思考」分野の言葉。どちらもそれぞれのフォローする領域での必然的要請から生まれたかなり厄介な言葉で、その2つをゴッチャにする議論を嫌う専門家も多いし、体系(コロラリー)自体が違うので同じ場所で議論すること自体ナンセンスって考えられてたりもする(とくに科学者方面で)。しかもそれぞれまだ議論百出で、解釈モデルも複数あって完成した理論とは言えないようだ。厳密にはオリジナルな「多世界解釈(エヴェレット解釈)」はパラレルワールド(並行宇宙)の実在を云々するものでは無いし、クリプキの「可能世界論」も虚構上の登場人物を可能世界の実在人物と捉えるアイデアは初期のみですぐ撤回している。僕のようにそれらの厳密な定義から飛躍した比喩的な使用法を、マジメに唱えているポスト・エヴェレット派(ないし対立するコペンハーゲン解釈派)やポスト・クリプキ派もいるにはいるようだけど、プロパー(専門家)がそういう飛躍したイメージ化を退けていることは留意しておく必要がある。要は「ある論理体系で世界を記述する時の、あたう限り無矛盾な数式化や解釈モデル」でしかないものなので、俗流の科学論や哲学、宗教(学)的な議論において、その根拠として使う場合は「想像的な誇張や飛躍」があるのだ。ここではパラレルワールドSFの背景モデルにおける「たとえ」として、かなりいい加減に使ってるので、あくまで「ひとつの世界観イメージを補強する語」くらいに思ってほしい。

さて。「全てのフィクションはパラレルワールドSFである」って前提に立つと、この我々の世界の時空構造は基本的には「多世界」だけど、その無数のパラレル・ワールドの中のいくつかには「因果上の制約」があるっていうような折衷案的な多世界観が妥当するだろう。基本は「あらゆる可能世界が、(フィクションも含めて)無限増殖し続ける世界像」なんだけど、でも中には変えられることと変えられないことがある世界があって、さらにまったく改変不可能な「決定論的世界」ってのもあると考えるワケだ。ツジツマが合わなくてもいい世界群の中に、いくつか運命論的世界のグループってのがあって、そこでは「ツジツマが合わないと駄目」ってルールが「何か」or「誰か」によって与えられていると考られる。たとえ運命に逆らって未来や過去を変えようとしてみても、それすら既に組み込まれていて実はツジツマが合ってしまうってな世界だ。<超越者>によって制御されているので歴史改変は不可能で、全ては必然で、人間の自由意志なんてのはあるフリしているだけで結局は予め予定されていて、だから予言や予知が可能な世界でもあり、いろんな占いにも妥当性があったりして、未来予知=予言が成就してしまう……そういう決定論的=運命論的世界が、人間の想像するあらゆる可能世界の中の一群として想定できそうだ。ん? 僕らの「この世界」はどっちなんだろ? 正解は「厳密にはどちらかわからない」だろうけど……。

神話や宗教教典では、この世界も運命論が支配していることになっている。最終戦争があるとか審判の日が来るとか、末法の世に弥勒が救いにくるとか、世界はやがてすべて共産主義になるとか…ってのなんかはまだ証明されてないけど(って何もかも宗教扱いしてみたりして)、オイディプスは予言通り父を殺し母と寝ることになるのだし、ユリシーズも冥府まで行って予言者の助言を受けたのに、予言通りやっちゃいけないこと(太陽神の牛を食うとか)をしては放浪を余儀なくされる。そのユリシーズも参加したトロイア戦争すら、ゼウスが「人減らし」のために画策した通り事が運んだってことになってる。神話を起源とするあらゆる「予言とその成就の物語」が、僕らの時間感覚の決定論的性質を基礎付けてはいるのだ。幸運や勝利は「神さまのおかげ」、不幸や不遇なんてのも、とにかく「運命」のせいにするワケである。で。それを受けて、オーソドックスなタイムトラベルSFは、決定論世界観を基本とし、このツジツマ合わせにパズルめいた論理を導入してる。変えられない運命を出発点とした映画『タイムマシン』も、表面的にはコッチの世界のフリしてるのだった。

そういやこの秋の話題作『サイン』ってのもネタが割れてみれば、時間論SFの一種だ。つまり息子が喘息持ちなのも、娘がコップに水をくんでは家中に置きっぱなしにする癖があるのも、妻が悲惨な事故死をするのも、その死の寸前の譫言も、主人公が牧師をやめるのも、元強打者の弟が一緒に住むことになるのも、田舎の書店にUFO研究書が一冊だけ間違えて配送されてきたのも、それら偶然に見えるあらゆる些細な事柄すら全てが決定論的に予定されていたって話なんだから。偶然なんて無い、全ては必然だ――ってのは『タイムマシン』のUモーロックの台詞だけど、この映画はまさにそのことを描こうとしているのだ。しかしそれは「誰」によって制御されているのか?をM.ナイト・シャマラン監督としては曖昧にしたかったようだけど、どうもキリスト教の神らしいって気配が濃厚なのがナンギだ。アメリカの田舎のある一家族の運命だけをここまで周到に気配りしてみせた「神さま」は、他の大勢の人々にもいちいちヒントを与えていたのか、それとも可哀想なフーディーニやイザベルって死んじゃう飼い犬とかと一緒で、あっさり殺される「運命」にあったのか、それなら何故メルギブ達だけが「選ばれ」たのか? とかとか、考えだすとエグい話になるんだよなぁ……。

ま、普通の常識で考えると「過去改変は不可能」だと思う、何故なら今いるこの世界が歴史改変されたものなら、ずいぶんとヘタクソな改変だよなぁって、もう素朴に感じるからね。いや、ひょっとしたら人類は過去に何度も壊滅的な破局を迎えている(いた)んだけど、影の勢力(善意の「人類人権派」超越者?)の必死の改変作業のおかげでなんとか破滅を回避してきたのかもしれないが……。だからお気楽な娯楽タイムトラベルSFだと、多世界解釈派に寄った「ご都合主義タイムライン選択」って折衷案になる。自由意志が認められているので歴史を変えられるワケだ(変わってない歴史が隣にあるとしても)。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズなんかは、このラインで突っ走ってみせた痛快娯楽ものとしては一級品である。まあジュブナイル向けSFジャンルは特に、少年少女に希望を与えないといけないので、「歴史は変えられるんだ!」ってスローガンが必須となる。なんとなくツジツマは合ってる感じだけど、世界線・時間線が分岐してることには余り触れたがらない。

邦画『Retunerリターナー』(実は裏『サイン』でもあるのだが)なんてまさにそんな感じ、『ターミネーター』より頭が悪い「ご都合主義タイムライン選択もの」になっている(でも鈴木杏が一所懸命なので許すけど)。2084年、エイリアンに侵略されて滅ぼされる寸前の未来の人類が、戦略時空兵器でミリ(鈴木杏)という少女を2002年という過去へタイムトリップさせる――ってのが発端で、闇の職業リターナー(漫画『GetBackers-奪還屋』のパクリ?)をやっているミヤモト(金城武)の協力を得て、なんとかエイリアン侵略の元になった事件を回避しようとするってな話になる。のだが……コレ(具体的には内緒)はちょっと「子供だまし」過ぎないか? ま、ボカしつつネタバレさせるなら、「借りを返す」という小エピソードで3つ目の未来が選択されて、ミリは3種類の別様の未来を生きることになるようなのだが(いや、未来と時間をこえて通信するシーンもあったので彼女は2つ目の未来にリターンし、3つめの改変未来へはいけないのかもしれないが)、今まで考えてきたことからするとあまりにもご都合主義というか利己的なので、もはや無理矢理ツジツマを合わす論理としては、「創造主(作者?)がミリ=鈴木杏を非常に可愛がっていたので、彼女を救世主の役回りにしたのだ」ってな宗教がかった解釈しか妥当しないかもしれん。これってば「厳密な決定論=神の意志」に逆らう「自由意志」を認めたはずの、「ゆるい決定論によるタイムトラベルSF」でありながら、実はミリという個人の希望に従う「奇跡=神の意志」の介入があった――ってのが好意的なツジツマ合わせになっちゃう。「ご都合主義タイムライン選択もの」ってのは、最終的には作り手=神の意のままってなヘンな循環をしてしまう宿命なのかもしれない。


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