1 2 3 4 5 6 7 8 9 10


映画タイトルの『ドニー・ダーコ』ってのは主人公の名前である。ドニー・ダーコ、略称「D・D」。と言えば、僕は三原順の漫画『ムーン・ライティング』『Sons』あたりを思い出す。そのシリーズ通しての主人公が、愛すべきお人好しにして直情径行の考え過ぎ野郎である通称D・Dことダドリー・デビッド・トレヴァー(Dadly David Traver)なのだ。姓も略すとDDTってな殺虫剤の名前になる。

彼は作者いわく「信念を持たない事勿れ主義者」なんだけど、そうなるのがいかに大変なことか?が、えんえんとトラジコメディ・タッチで描かれてゆく漫画だと思えばわかりやすいかな。ま、こっちのD・Dは出生の秘密を持った「不憫な子」なので、描き方によっては真っ暗な悲劇(メロドラマ)にも、はたまた生まれを呪うピカレスク劇にもなりそうな設定。なんだけど、彼のある種の天真爛漫さ、というか「天然さ」が、物語のトーンに救いをももたらしているってのがミソ。「ザル頭」とも呼ばれてるし、チラッとしか出てこないD・Dのホントの父親J・Jの血を受け継いだ「阿呆」とも評されたりしてる。まあでも万人受けはしそうにないこだわり方で描かれた物語……なのである。

で、最近読み返してみたら、彼、D・Dこそ僕の「理想のロールモデル」の一人だったことに気づいて、愕然――というかビックリした。つまり、例えば普段のささやかな出来事に対して、何か深く疑問に感じて考えこんでしまう癖が僕にはあるんだけど、まあそれは自分の業だと思って諦めて、でも日常では深く考えずに感じたこと思ったことは取りあえずやっちゃうし言っちゃおうとも開き直ってたり、そしてそれがもたらす結果(社会性のあるようなないような状態という欠陥)には自分なりに責任をとる、なんて基本的な方針は、もう自分の条件反射的行動ルーチンになってるワケだけど、なんでこんな風にできあがってしまったのか?をすっかり忘れてしまっていた。でも(全てじゃないが)このD・Dの生きざまにも明らかに影響を受けていることを再発見してしまったのだ。が〜ん。で、なんだか情けな恥ずかしい気分にうっかり浸ってしまったり…‥。いかん、そんな話はどうでもよくて。この<ムーン・ライティング>シリーズは、大枠は「ウェアウルフもの」、つまり「狼男のお話」なので、『ドニー・ダーコ』に出て来た台詞と、妙に感応してしまったのだ。



「ドニー・ダーコなんて名前、スーパー・ヒーローみたい」「かもね」

――劇中でヒロインのグレッチェンが、主人公D・Dに言う台詞だ。これを聞いた時、「スーパー・ヒーローみたいな名前? アメコミの? DDってダブル・イニシャルがそうなのかな」ってすぐ思った僕は「だけどスーパーマンもスパイダーマンもSMだし、バットマンはBMだし……でもファンタスティック・フォー(邦題「宇宙忍者ゴームズ」)のFFでもシルバーサーファー(FFの脇役として1965年に初登場、90年代に人気が出た)のSSでもワンダーウーマンのWWでも“スーパー・ヒーローの名前みたい”ってほどメジャー感ないよなぁ」とか、「あ、もうすぐ映画が公開される『デアデビル』(1964年にコミック初登場、人気が出たのは80年以降とか)のDDかなぁ。とすれば、なんてマニアックなグレッチェン!」なんて憶測をしたワケだ。で、さっそく『ドニダコ』観てる知人に話したら、「あれはクラーク・ケントとかピーター・パーカーとかってことじゃないの?」と遠慮がちに返されてしまった。ああっ、変身する前のスーパーマンやスパイダーマンの名前か! クラーク・ケント(Clark Kent)はCKだけど音はKKとダブってるし、スパイディことピーター・パーカーJr.はズバリPPじゃん! たはは、そーゆーことか。←こーゆー恥をいつもかいてる僕であった。そういや「アメ・コミのヒーローの普段の名前は、ほとんどダブル・イニシャル、つまりダブル・イニシャルを持つ者にこそヒーローの資格がある」なんてネタ、昔、なにかの陰謀ものの映画か小説でもチラッと聞いた気がする……んだけど思い出せん。もしかして一般常識? うう……とか醜態に恥じ入りつつも、頭の中ではさらに「DD」について考えてて、『ムーン・ライティング』シリーズにあった、あるエピソードを検索していたのだった。


『アイ・アム・サム』と2つの絵本とビートルズ、そしてメタ映画

『スチュアート・リトル2』の、よくできた「矛盾」について

傑作『ドニー・ダーコ』を語る前に、『タイムマシン』の迷路を彷徨う。

「死者」へのレクイエム――『ドニー・ダーコ』私論